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> わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 3050号
>□■■□━━━───────────────────────□■■□
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> 2013(平成25)年8月28 日(水)
>
>
>
> 公明党は政教分離の原点に戻れ:杉浦正章
>
> 薄煕来の相棒=周永康が近く逮捕:宮崎正弘
>
> 英霊は等しく心を込めて祀るのがよい:櫻井よしこ
>
> 私の「身辺雑記」(26):平井修一
>
> スターリン批判の勇気:渡部亮次郎
>
> 話 の 福 袋
> 反 響
> 身 辺 雑 記
>
>
>□■■□ ──────────────────────────□■■□
>第3050号
> 発行周期 不定期(原則日曜日発行)
>
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> 御意見・御感想は:
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>━━━━━━━━━━━━━━
>公明党は政教分離の原点に戻れ
>━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 杉浦 正章
>
>山口は集団的自衛権で二元外交するな
>
>「皆さんは集団的自衛権のことで連立を離脱したくないでしょうねぇ」と
>公明党代表・山口那津男が党幹部らに話しかけたという。8月初旬のこと
>だ。山口は「だからしっかり話し合わなければ」とも付け加えたが、この
>発言は永田町に伝わり、山口は連立離脱まで考えているのかという憶測を
>生んだ。
>
>しかし首相・安倍晋三の集団的自衛権容認へ向けて憲法解釈を見直す意思
>は固い。法制局長官を更迭したことの意味は、安倍が賽(さい)を投げて
>ルビコンを渡ったことに他ならない。このままではまさに連立の危機だ
>が、山口にその度胸はないとみる。しょせんは条件闘争に移行するだろう。
>
>山口の集団的自衛権容認反対の姿勢は一見筋金入りのようである。参院選
>最中も「断固反対」と発言している。その根拠は「憲法9条をどう読んで
>も集団的自衛権を認める解釈は出てこない」というところにある。
>
>同党が1998年に決定した基本政策大綱は、集団的自衛権について「我が国
>の自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものであって、憲法上許され
>ないと考える」と明記している。この路線に沿って発言しているわけだ。
>
>第1次安倍政権の時は当時の代表・太田昭宏も安倍に「集団的自衛権の行
>使は認められない」とねじ込んでいる。太田は現在国土交通相であり、安
>倍が閣議決定する場合にはこのままでは最大の難関となり得る。
>
>公明党の強硬姿勢の背景には、創価学会の絶対平和主義がある。参院選挙
>でも学会の集会では実働パワーの婦人部から「日本が戦争に巻き込まれ
>る」という無知に根付いた強い反対の声が上がり、山口の「断固反対」発
>言につながったようである。
>
>しかし山口は、憲法の「政教分離」の原則に基づき、公明党が「王仏冥
>合」の言葉を党綱領から削除していることをよもや忘れてはいまい。
>
>70年に当時の学会会長・池田大作が言論出版妨害批判に耐えきれずに政教
>分離を明言して、公明党は学会の影響を極力排除した政党に脱皮したはず
>ではなかったか。その立党の基本を党首が無視してはいけない。今の同党
>の姿勢は国の安全保障より創価学会大事となってしまっているのだ。
>
>また、公明党の集団的自衛権容認反対の方針は、同党の憲法改正案とも全
>く矛盾する。同党は「加憲」と称する改憲へと動き始めているが、その焦
>点となるのは9条だ。山口は9条に3項を新設して自衛隊の存在を明記す
>る構想のようだが、これは当然集団的自衛権の容認が前提となる。
>
>憲法改正で容認する以上、改正前でも事実上容認すべきと考えていなけれ
>ば行えないことではないか。山口は集団的自衛権の行使について「近隣諸
>国の見方も合わせて考える必要がある」と発言しているが、問題をはき違
>えている。
>
>中国、北朝鮮など近隣諸国がにわかに好戦的かつ挑戦的に転じて、我が国
>を取り巻く安全保障の環境ががらりと変ぼうした結果の、自衛権容認であ
>るのだ。韓国も集団的自衛権の容認に筋違いの懸念を示しているが、米韓
>同盟は同自衛権を認めて、日本は認めないのは大矛盾だ。
>
>安倍が法匪の如く旧来の解釈に固執する法制局長官を更迭したのは、極東
>の現実に全くそぐわない「旧説墨守と思考停止」を改める必要に迫られて
>いるからに他ならない。公明党も「思考停止」から離脱しなければなるまい。
>
>ただ連立政権である以上、公明党の立場を考慮して安倍が26日「今まで政
>府内だけの議論だったが、公明党にも理解をしていただく努力をする必要
>がある」と述べているのは正しい。
>
>公明党の懸念は「地球の裏側まで行って米国を助ける」(山口)というよ
>うなところにあるが、集団的自衛権行使に当たっての"歯止め"の明確化が
>必要だろう。
>
>手続きの立法化や自衛隊の派遣を国会の事前承認を前提とする事などは安
>保法制懇の第1次報告でも明確化しており、これに地域の限定を付け加え
>てはどうか。例えば行使の範囲を安保条約の極東の範囲であるフィリピン
>以北と明示することなどである。
>
>
>山口は来月8日から13日まで訪米して、米政府要人と会談する方針だが、
>集団的自衛権の問題を避けては通れまい。現在のまま米国で独自の主張を
>繰り返せば、まさに安倍政権は二元外交の危機に直面する。
>
>すでに安倍は大統領・オバマとの会談で集団的自衛権容認を表明してお
>り、これは対米公約となっている。山口は、米国が本当に集団的自衛権の
>容認を日本に求めているかどうかを探りたい思惑があるようだが、恥をか
>くだけだからやめた方がよい。
>
>国務省も国防総省もようやく日本が国連憲章も認める安全保障の思想を取
>り入れ普通の国になろうとしているという判断であり、安倍の路線をもろ
>手を挙げて歓迎しているからだ。そこを突っついて片言隻句を取り出そう
>としても、無理だ。
>
>もっとも外務省は米側の勉強不足で高官がとんちんかんな発言をしないよ
>うに、会談予定者にあらかじめ公明党の立場と安部の方針を明確に説明し
>ておく必要がある。これは早急に手を打たねばなるまい。
>
> (政治評論家)<2013年08月28日>
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━━━━
>薄煕来の相棒=周永康が近く逮捕
>━━━━━━━━━━━━━━━
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
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>「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
> 平成25(2013)年8月28日(水曜日)
> 通巻第4006号 (前日発行)
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>
> 薄煕来の相棒、腐敗の象徴=周永康が近く逮捕
> 家族はみんな米国へ逃亡済み。いまや「裸官」の象徴的存在
>********************************
>
>薄煕来の相棒でもあり、腐敗の象徴とされた周永康(前政治局常務委員)
>は薄事件に連座して近く逮捕される模様と博訊新聞網(8月23日)が伝え
>ている。
>
>周は胡錦涛執行部の後期、江沢民の推挽で政治局常務委員(序列9位)に
>潜り込んだ権力亡者で、いたって評判の悪い政治家である。
>
>周永康(71歳)はもともと資源開発専門、石油畑をあるき、98年に資源部
>長(閣僚)、2000年に四川省書記に抜擢され、四川省の資源利権を抑えた
>といわれる。
>
>2002年に中央政治局入りし、公安部長兼任。ハッカー対策の傍ら中国の
>ハッカー部隊を育成し、米国並びに同盟国の政府、軍、企業にさかんに
>ハッカー戦争を仕掛けた張本人と見られる。
>
>17期党大会で政治局常務委員入りし、胡錦涛の政策と対立、また薄煕来と
>は「愛人を分け合った」ほどの同盟関係を結んでいたため、薄事件の連座
>で失脚説が数十回、数百回も流れたが、現時点で逮捕されていない。
>
>「裸官」とはひとりだけ中国に残っても、汚職などで得たカネもろとも家
>族、親戚、愛人らは米国やカナダ、豪に逃げてしまった共産党高官を指
>し、腐敗の権化とも云われる。
>
>周の息子の周文武はすでに米国滞在8年におよび、その妻の王腕は同13
>年、すでに王の父母は米国に移住しており、しかも周一家は米国籍を取得
>していると博訊新聞網が報じている。
>
> (註 周の息子の周文武の「文武」は一文字)
>
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ■ BOOKREVIEW
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>
> 日本の朝鮮統治の総括は、戦後かくも歪められてきたのか
> 公平に客観的に朝鮮統治を比較検証すれば、九割が公平だった
>
> ♪
>ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー著 塩谷紘訳
>『日本の朝鮮統治を検証する 1910 −1945 』(草思社)
>@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
>
>画期的な、しかもアカデミックな歴史検証の書物が出た。
>
>米国の学者が、客観的な歴史の事実を踏まえて、これまでの俗説に挑戦し
>たのだ。本書は日本の保守層にとって必読の文献となるだろう。
>
>日本の朝鮮統治は「殆どが公平におこなわれた」とする結論は、アメリカ
>の歴史学会では異例、おそらく左翼陣営やリベラルなマスコミから「修正
>主義者」のレッテルを貼られるであろうが、その学者生命を賭けた勇気に
>私たちは瞠目する必要がある。
>
>そして、この本が世界で広く読まれることを真摯に望みたいのである。
>
>小誌の読者にはいまさら説明の必要はないであろうけれども、日本の朝鮮
>統治が「帝国主義的な侵略だった」とか「残忍」とか「植民地主義による
>収奪」とか、でたらめなことをいってのけてきた左翼学者、ジャーナリス
>トによって、いまも多くの日本人は『洗脳』されてしまったままである。
>
>しかし客観的事実を注意深く遡及し、慎重に比較検証してみれば、それこ
>そが「穏健かつ公平、現実的にして、日朝の相互発展を目指」していたこ
>とが分かる。その事実を、しかしながら絶対に受け入れない国々がある。
>
>そして「朝鮮、韓国系の人々が往々にして極端に偏見に満ち、反日的な歴
>史の記憶をあえて選択して記憶に留める傾向を、少しでも緩和するお手伝
>いをするべく努力してきた。その中で非常に印象的だったのは、朝鮮の近
>代化のために、日本政府と朝鮮総督府が善意を持ってあらゆる努力を惜し
>まなかった」のである。
>
>書かれるべくした書かれた歴史のダイナミックな検証である。
>
>「フランス領カンボジアでは、1944年に就学対象児童の20%以下しか学校
>へ行けなかった」
>
>いや、そればかりか「ベトナムに於けるフランスの教育的実績も寂しい限
>りだ」とする著者らは、就学率が10%以下であったうえ、『植民者』と
>『被植民者』との差別があった。つまり別々の学校へ通わされていた事実
>を淡々と書く。
>
>日本統治下の朝鮮、台湾で、そういう露骨な差別はなかった。
>
>「フランス領西アフリカの教育制度はベトナム以下のレベルだった」
>
>「イギリスの植民地における教育実態は功罪相半ばした。大半が間接統
>治」でなされ、「現地の伝統的なエリート集団に日々の実権を委ね」た。
>
>イギリス統治のインドの識字率は12%だった。
>
>「イギリスとフランスがアフリカで施した教育の主眼は、現地人の学生達
>を労働者や活動的な市民にすることではなく、従順な農民にすることだっ
>た」。
>
>「ポルトガルの植民地教育は、文化的同化に焦点を絞った」。けれども
>「学費が極端に高く、実際に通学できた子供達はごく僅かだった」
>
>「ベルギー領コンゴの教育はすべての植民地の中で最悪だった」
>
>すなわち「日本は決して植民地の生き血を吸うバンパイアではなかった」
> 朴大統領、播国連事務総長にも、この本を届けたい。
>
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ◆書評 ◇しょひょう ▼ブックレビュー ■ BOOKREVIE
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>
> ♪
>青木直人『安倍晋三が第二の田中角栄になる日』(KKベストセラーズ)
>@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
>
>極めつきにジャーナリスティックな題名である。しかもまったく性格も教
>養も異なる田中角栄と安倍晋三を比較して、その政治スタイルを論じつ
>つ、日米関係、日中関係を展望する。随所に独特な(トいうより独断と偏
>見に満ちた)青木流の世界情勢分析が加味されている。
>
>田中角栄の訪中と日中国交回復という拙速外交は日本の外交史に汚点を残
>したが、青木によれば、田中角栄は媚中派ではなく、むしろ日本の独走を
>知ったキッシンジャーが「ジャップ」と舌打ちしたとか。
>
>引き続いて大平政権は、中国にずぶずぶの経済援助と料金未払いを新しい
>借款でごまかすという政商としての政治に徹した。この巧妙かつ屈辱的な
>対中援助はバックマージンなどによって日本の政治家も潤したという説が
>有力だったが、青木によれば、アメリカ政界も潤ったという解釈をとる。
>またTPPには中国が加盟すると予測している。
>
>結論的に「日米同盟」に依存する日本は、アメリカが舞台裏で根廻してい
>る「米中同盟」という国難に遭遇し、田中の二の舞を演ずることになると
>やぶにらみな警告を強く発する、じつにユニークな仕上がりとなっている。
> ▽
>♪♪
>宮崎正弘の最新刊 3刷出来!
> 『中国バブル崩壊が始まった』(海竜社)
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> 定価1000円(税込み。アマゾン ↓)
> http://www.amazon.co.jp/dp/4759313303/
> ♪
>〜
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> 読者の声 どくしゃのこえ READERS' OPINIONS 読
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>♪
>(読者の声1)貴誌4005号(8月21日付け)にミャンマーの麻薬王の記事が
>ありました。
>
>シャン州の州都チェントンに3回ほど行ったことがあります(今は通行で
>きなくなっているようです)。
>
>交通はメーサイ/タチレク泰緬国境からチャーター車で5時間くらいかかり
>ます。緬シナ国境のモンラーにはさらに4時間程度。この道はシナとタイ
>を結ぶ南北回廊の一部(南北回廊はラオス経由とミャンマー経由がある)
>で、タイ企業が綺麗に舗装していました。
>
>チェンマイからメーサイは5時間程度です。チェントンにはタイヤイ族が
>多く(シナ人、アカー族、ビルマ人、ヒンズーインド、ムスリムインドほ
>か、少数民族の見本市の如し)、タイヤイ族は色も白くタイ語の方言を使
>います。
>
>タイヤイ族にはアユタヤの山田長政の残党がミャンマーに逃れ、北のタイ
>語が通じるチェントンまで移動して住み着いたとする伝説が残っていま
>す。顔は日本人そっくり。
>
>チェントン出身の娘は結構、チェンマイ(昔のランナー王国の首都、泰)
>の置屋(ビルマ人なのでカラオケで働きにくいらしい)で働いています。
>自分の経験では、彼女らは自分らをメーサイ出身(表向き、ビルマ人とは
>いえない)という場合が多いです。
>
>昔、内乱軍の拠点となったチェントンホテルにも宿泊しました。ヤンゴン
>のセドナホテルと同じ様式の造りです。セドナホテルをみたときにチェン
>トンホテルを思い出しました。
>
>チェントンからさらに緬シナ国境のモンラーも見に行きました。モンラー
>はカジノと売春の街で、当時(2006年頃)はカジノホテルは閉鎖され、売
>春と賭け事とゲテモノレストランの町(タイのオカマショー、シナのスト
>リップショーもあった。ガイドによれば、それ昔はロシアのストリップ
>ショーがあったらしい)でした。
>
>モンラーには麻薬博物館があります。クンサーの大きな肖像画が飾られて
>いました。クンサー賞賛です。
>
>またタイのチェントンの北4-5時間ほどのところ(タイ国内)にパーイと
>いう街があります。そこは観光シーズン(11-2月)には西洋人が人口のほ
>とんどを占めます。
>
>そこに国民党残党のシナ人村がありました。パーイには日本人の若者
>(?)もパーイ郊外に住んでいるようです。
>
>確証はなにもありませんが、おそらくマリハナでもやっているのかもしれ
>ません。憶測のみですが、それ以外はなにもないところです。しかし、表
>向きはパーイはスピリチュアルな街で、西洋人が滝で座禅を組んでいたり
>します。シーズン中の気候は暑くも無く寒くも無く、空気もよく、快適です。
>
>もうひとつ。チェントンの某ホテルに宿泊したときに、オーナー(ヤンゴ
>ンで警察官をして今は引退。情報機関に通じているかどうかは不明)の話。
>
>戦争中、彼は日本軍の将校にかわいがられていた。その日本軍将校はハン
>サムと優しい人だった。戦後、英軍が来て捕虜になった。英軍は、その優
>しい将校のところに毎日来て、「日本では捕虜は恥ではないのか!」と繰
>り返しいって、机の上に銃を置いて帰った。毎日・毎日・・・・
>
>そしてある日、その将校は自殺したとのことです。彼は自殺しなかった
>ら、彼はまだ生きていただろうと言っていました。
>
>優しくて良いひとだったのにと繰り返していましたよ。わたしはアーロン
>収容所の「アメーバ赤痢の蟹」の話を思い出しました。
>
>西洋人というのは、ゲームのルールに則って、汚いことをやるものです。
>捕虜虐殺じゃないですか。故橋本総理はロンドンにまで行って、英国に謝
>罪する必要など毛頭なかったのです。(R生、ハノイ)
>
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━━━━━━
>英霊は等しく心を込めて祀るのがよい
>━━━━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 櫻井よしこ
>
>8月15日の「産経新聞」1面に北京発時事伝が掲載された。それによると、
>中国共産党の毛沢東政権が1956〜57年当時、日本との関係正常化を目指し
>て日本の元軍人を含む「右派」への工作を展開し、「A級戦犯」の畑俊六
>(しゅんろく)元帥の訪中を熱望していたという。
>
>日中友好促進のために中国共産党が「A級戦犯」を熱烈歓迎しようとして
>いたわけで、現在とは正反対の政治状況が読み取れる。靖国をはじめとす
>る歴史問題がどれほど政治的に利用されてきたかを示す事例である。
>
> 畑は真珠湾攻撃の2年前の39年に陸軍大臣となり、翌年、米内光政内閣
>で中国派遣軍総指揮官に、44年には元帥となった。彼は「A級戦犯」とし
>て終身刑を受けたが、日本が独立を回復後、全国で起きた「すべての戦犯
>の赦免運動」によって、54年に釈放された。
>
>この畑に毛沢東が接近したのだ。時事は、「親中派の遠藤三郎元陸軍中
>将」が56、57の両年訪中し毛らと会見したこと、日中友好協会(当時)理
>事長の内山完造も56年に訪中し、廖承志(リョウ・ショウシ)共産党対外
>連絡部副部長と会見したと伝えている。畑の訪中を望む中国の意向は内山
>に伝えられ、内山は遠藤を介して元「A級戦犯」の畑に接近したという構
>図が見える。
>
>畑はしかし、申し入れを固辞した。遠藤は毛らの希望をかなえるべく、畑
>以外に4人の元陸軍大将に訪中を働きかけたが、いずれも失敗したことが
>中国側の外交文書に記されているそうだ。畑同様、訪中を断った4人は岡
>村寧次、今村均、下村定、河辺正三であり、いずれも陸軍大将を務めた。
>
>実に興味深い。いま、中国が口角泡を飛ばして「A級戦犯」と靖国神社参
>拝を非難するのと同じ「政治の企み」が、「A級戦犯」本人を招くべく、
>接近工作した事実から見えてくる。時事が伝えたニュースの核心は、毛以
>下全中国人はA級戦犯など全く問題視していなかったという点に尽きる。
>
>様変わりしたのは中曽根康弘元首相のときだ。このころから中国も韓国も
>歴史を政治の道具にし始めた。彼らの不条理極まる歴史の政治利用は、そ
>れを許す隙を日本側が与えたからであり、日本に半分の責任がある。
>
>中国がどれほど「A級戦犯」にも「靖国合祀」にも無関心であったか、小
>欄でも繰り返し指摘してきたことだが、大平正芳首相の事例で見てみよう。
>
> 「A級戦犯」の靖国合祀は79年春に「毎日新聞」がスクープした。「A級
>戦犯」が合祀された靖国神社に当時の首相、大平は春も秋も例大祭で参拝
>した。その大平が同年12月に訪中すると、中国側は大平を熱烈歓迎した。
>
> 翌80年に訪中した中曽根は当時一介の代議士ながら、「青年将校」と綽
>名され靖国参拝を欠かさないことで知られていた。その中曽根に中国側は
>日本の軍事費を倍増してGNPの2%にすべきと進言した。
>
> 再度強調する。これはいずれも「A級戦犯」合祀後の外交である。中国
>人が「A級戦犯」も靖国合祀も全く気にしていなかったことの明らかな証
>拠である。にもかかわらず、日本のマスコミはこうしたことを歴史摩擦に
>仕立て上げる。彼らこそ、諸悪の根源である。
>
>こうした中、安倍晋三首相は8月15日、靖国神社に玉串料と真榊を奉納し
>て参拝を見送った。首相は時機を選んだのであろう。私は、首相はいずれ
>必ず参拝すると信じている。
>
> 小泉純一郎元首相を支え続けた飯島勲氏は、いま内閣参与を務めるが、
>安倍首相の今回の決断について語った。
>
>「怒ってるんです。なぜ、行かないのか。行けばいいんです。政治の決断
>なんです」
>
>靖国は政治問題にされているが、死者は区別せずに、等しく心を込めて祀
>るのがよいのである。とりわけ日本に殉じた英霊を区別してはならないの
>だ。(週刊ダイヤモンド)
>2013.08.27 Tuesday name : kajikablog
>
>
>
>━━━━━━━━━━━
>私の「身辺雑記」(26)
>━━━━━━━━━━━
>
>
> 平井修一
>
>■8月24日(土)。室温32度でそれほど暑いわけではないが、散歩から帰っ
>て1時間ほどすると犬がふらふらして呼吸が荒い。死ぬのじゃないかとお
>ろおろしたが、もしかしたら、と、クーラーを28度にして安静にしたら2
>時間ほどで元気になった。熱中症だったのだ。老犬だから32度でも堪える
>のだ。
>
>多摩川べりの長女の家のすぐ近くで花火大会。カミサンと次女家族が遊び
>に行ったが、とても素晴らしかった、と興奮冷めやらぬ体で帰ってきた。
>警備のガードマンは最初は花火に背を向けて観客の方を見ていたのが、そ
>のうち肩越しに写メを撮りだし、やがて堂々と花火を見物していたそう
>だ。まあ、気持ちは分かるけれど・・・
>
>■8月25日(日)。室温28度、小雨、とても涼しい。犬に急かされて「まあ
>大した雨ではあるまい」と散歩に出たものの、結構な雨になってしまい、
>窓が開けっ放しでベランダの洗濯物も心配なので早々と帰ってきたが、バ
>タバタしていたらまた小雨になった。「なんなんだ」といささか憮然。
>
>帰る途中で床屋を覗くと客はいない。雨だから客足が止まったのだろう。
>数日前から床屋に行きたかったので、チャンスである。洗濯物を取り込ん
>で犬を洗った後に床屋に出かけたが、なんと4人待ちになっていた。「遅
>かりし由良之介・・・」、再び憮然。
>
>甘い期待、予想、予測は本当によく外れる。思うようにいかないのがこの
>世で、それならあの世ではうまくいくのか、惚れた相手と結ばれるのか、
>酒はあるのか、本はあるのか、パソコンはあるのか・・・極楽浄土にはな
>にもありはしない、永遠にあるのは死ぬほどの退屈だけだろう。
>
>■8月26日(月)。快晴だが室温27度でとても快適だ。犬も元気で久し振り
>にフルコースを散歩。早朝、開店15分前に床屋に行ったが、考えることは
>誰も同じで、もう2人待ち。並ぶのが苦手だから、すごすご帰ってきた。
>整理券を出してくれるといいのだが・・・。3時に行ったら1人待ちで、よ
>うやくさっぱりした。
>
>■8月27日(火)。快晴、室温27.5度、夕べ雨が降って今朝はとても涼しい。
>
>小生「まるで高原リゾート、軽井沢みたいだな」
>家内「ほんとに。軽井沢はこの夏はとても暑かったって病院の子が言って
>いたわ、東京の方がまだ涼しいって」
>
><軽井沢高原は浅間山の南麓、標高950mから1200mの緩斜面にある。東
>京では日中の最高気温が25℃以上になる「夏日」が106日間も続くが、軽井
>沢は真夏でも涼しい高冷地気候である>(軽井沢観光協会)
>
>ところが今夏の軽井沢周辺の8月の最高気温は、8月9、10日が35℃、それか
>ら30℃台が続いて17、19日36℃、23日から20℃台になり、ようやく涼しく
>なった。軽井沢の住人のブログにはこうあった。
>
><2013年8月26日月曜日 昨日からすっかり秋めいてきた軽井沢ですが、
>今朝はひんやりした冷気で目が覚めました。この感覚、久しぶりです。
>
>軽井沢も、お盆前後は最低気温が20℃前後。最低気温が30℃を下回らなかっ
>た東京に比べれば、涼しいじゃんと言うことになりますが、何しろここは
>軽井沢ですから、この時期の最低気温は17℃ほどが普通。正直、20℃超えた
>ら熱帯夜な感覚です>
>
>やはり例年にない暑さだったのだろう。この猛暑特需で売れたのは、日
>傘、エアコン、扇風機、アイス、ビール、変わったところでは火を使わず
>調理できるシマダヤの「流水麺」、暑いなか出歩きたくない人が利用した
>のだろうネットスーパーも伸びたという。
>
>戦いすんで日が暮れて。あとひと月もしないうちに秋の彼岸入りである。
>(2013/08/27)
>
>
>
>
>━━━━━━━━━━
>スターリン批判の勇気
>━━━━━━━━━━
>
>
> 渡部 亮次郎
>
>子どもの頃、恐ろしかったのは進駐軍だったが、それより恐ろしかったの
>はソヴィエトのスターリンだった。政敵や邪魔者を何千万人も殺したか
>ら、敗戦国に遣ってきて、私も殺されるかも知れないと思うと、夢にまで
>出てきた。
>
>長じて高校2年の春3月5日に、そのスターリンの死が公表された。
>年表で見ると、当時はこれで平和が来ると見たのか、東京証券取引所で
>は、軍需株を中心に暴落し、スターリン暴落と記録されている。
>
>入る大学を間違えてマルクス経済学者・大内兵衛を総長に戴くところへ
>入ってしまった。だが共産党員学生が幅を利かせる学風に反発、子どもな
>がらに物凄い反共主義者になった。
>
>そうしたところへ3年生の春、3月24日、ソヴィエトで第1書記のニキタ・
>フルシチョフがスターリンを公然と批判した。話題にするだに恐ろしいス
>ターリンを、死後とは言えど、批判するとは、大変な勇気を持った人もい
>るものだと感服した。
>
>学内の共産党員学生が小さくなった。女子学生が口紅を付け始めたのには
>笑ってしまった。
>
>1956(昭和31)年3月24日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフ
>が政治報告を発表し、スターリン執政期における秘密の一部を暴露し、個
>人崇拝がを批判した。
>
>1939年、スターリンは次のように述べた。
>
>「社会主義ソ連邦では既に階級は存在せず、抑圧機構としての国家も存在
>しない」。
>
>しかし、数多くのソ連国民が、シベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所
>で強制労働に従事させられていた。
>
>第2次世界大戦後も、スターリンは国際共産主義運動に君臨していた。
>1951年、日本共産党が所感派と国際派に分裂したときも、所感派に軍配を
>上げ(スターリン判決)、国際派は涙を飲むより他になかった。
>
>そのスターリンの死から3年が経過した1956年2月、ソ連共産党第一書記フ
>ルシチョフは、第20回党大会において、外国代表を締め出し、スターリン
>の個人崇拝、独裁政治、粛清の事実を公表した。
>
>特に、全領土で吹き荒れた大粛清の契機となったキーロフ暗殺に至る陰謀
>について詳細に明かされた。フルシチョフは、全ソ労評議長として、ス
>ターリンに直接仕える立場にあった。
>
>すでに西側の共産主義シンパからソ連とスターリン体制への失望が表明さ
>れることはあったが、これにより、スターリンは国際共産主義運動の玉座
>から決定的に引き摺り下ろされる形となった。
>
>フルシチョフの秘密報告の要旨。
>
><個人崇拝はマルクス、レーニンによって戒められていたにもかかわら
>ず、レーニン死後、党と国家の指導者となったスターリンは、自らを対象
>とした個人崇拝を許すどころか奨励し、党生活や社会主義建設に重大な障
>害をもたらした。
>
>すでにレーニンはスターリンの指導者としての資質に問題があることを指
>摘、彼を書記長職から移動させることを提案していた。
>
>だがレーニン死後、スターリンはこうしたレーニンの忠告に耳を傾けるそ
>ぶりを見せたため、彼はその後も書記長職に留まった。だが彼はほどなく
>本性を現し、党生活の規律を無視して専横するに至った。
>
>1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち、70
>パーセントにあたる98名が(主に大粛清の際)処刑された。
>
>党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様の運命をた
>どった。彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣であった。
>
>スターリンの弾圧はソ連社会の各方面で活躍する活動家、さらにおびただ
>しい数の無辜の市民に及んだ。彼らに科せられた「トロツキスト」「人民
>の敵」その他の罪状は、これまたでっちあげであった。
>
>ヒトラーは権力掌握時からソビエト連邦への攻撃と共産主義の抹殺の意図
>を隠さなかったにも拘わらず、スターリンはヒトラー・ドイツに対する防
>衛の準備を怠り、それどころか有能な多くの軍事指導者をその地位から追
>放、逮捕さらには処刑に追いやった。
>
>「大祖国戦争」(独ソ戦)の初期の戦闘において赤軍が重大な敗退を喫
>し、兵士、市民に莫大な犠牲者を生じた責任はスターリンにある。
>
>スターリンの専横ぶりは、第2次世界大戦後のソ連と「社会主義兄弟国」
>(東側諸国)との関係にも悪影響を及ぼした。
>
>その最も際立った重大な例はチトー率いるユーゴスラビアとの関係悪化
>で、当時両国間に生じた問題は、同志間の話し合いで解決できなかったも
>のは何一つなかったのに、「俺が小指一本動かせばチトーは消えてなくな
>る」と言い放ったスターリンの傲慢な態度が原因で両国関係は決裂しユー
>ゴを敵対陣営に追いやってしまった。>
>
>ただし、この演説の内容自体はフルシチョフのオリジナルではなく、政敵
>であるマレンコフが考え出した物であり、フルシチョフがそれを横取りし
>たということも指摘されている。
>
>また、フルシチョフは自分がスターリンの下でどれだけ忠実に働いたのか
>を隠していた。大粛清に積極的に加担し、自分の出世に利用した点も考慮
>する必要があるだろう。
>
>しかし、当時はスターリンに「NO」ということはすなわち「死」を意味す
>る時代であったわけで、一般国民だけでなく党や政府などスターリンに使
>える立場にあるものまで生命の危険にさらされていただけに、何を思おう
>がスターリンのやり方に従わざるを得なかった。
>
>数年後、もう一度フルシチョフによるスターリン批判が行われた。この結
>果スターリンの遺体は撤去され、燃やされた。
>
>時は流れ1987年11月、在任中のゴルバチョフがロシア革命70周年記念式典
>でスターリンを批判し、レーニンをもスターリン主義の元凶として批判した。
>
>スターリン神話が崩壊したとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)
>が国民を監視するという恐怖支配の構図はソ連崩壊まで変わらなかった。
>
>フルシチョフのスターリン批判の直後、ハンガリーで民主化を求める市民
>革命(ハンガリー動乱)が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧された。
>
>また、構造改革などの影響で既にスターリン主義とは一定の距離を置いて
>いた西欧の共産党には、スターリン批判は自己に直接影響を及ぼすものと
>は受け止められなかった。
>
>かつてスターリンが退けた「国際派」が主流となっていた日本共産党も同
>様で、スターリン批判と共に打ち出された平和共存の学習の推進を訴えた
>だけだった。
>
>スターリン批判は中国(中華人民共和国)との関係に重大な亀裂を生み出
>した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント)
>を北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降中ソ関係は急速に悪
>化する事となる。代わりに中国は、アメリカとの関係を修復していった。
>
>朝鮮民主主義人民共和国においては、すでにスターリン型の支配体制を築
>き上げて、その正統性を人民に要求しつづけていた金日成政権が、中国同
>様フルシチョフ路線を「修正主義」として強く批判した。
>
>これはソ連との関係が冷却化する契機となった。実際にフルシチョフによ
>る消費財生産重点化政策をきっかけに、金日成派の執権は脅かされてい
>た。一方、延安系とソ連系の幹部がスターリン批判を受けてクーデターを
>計画したが失敗に終わり、粛清された(8月宗派事件)。
>
>日本において、スターリン批判を重く受け止めたのはトロツキストであっ
>た。これと前後して、日本のトロツキストは、新しい前衛党=新左翼の結
>成に進んだのであった。
>
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