>□■■□──────────────────────────□■■□
> わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針 3022号
>□■■□━━━───────────────────────□■■□
>
>
> 2013(平成25)年7月30日(火)
>
>
>
> 君臨7年、輿石氏の何がいい?:阿比留瑠比
>
> 自民党は「輿石副議長」を認めるな:杉浦正章
>
> すべて毛沢東の猿真似:宮崎正弘
>
> 平等院鳳凰堂「平成の大改修」に賛否:渡部裕明
>
> 奥浩平と中原素子:平井修一
>
> 話 の 福 袋
> 反 響
> 身 辺 雑 記
>
>
>□■■□ ──────────────────────────□■■□
>第3022号
> 発行周期 不定期(原則日曜日発行)
>
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> 御意見・御感想は:
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>
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>━━━━━━━━━━━━━━
>君臨7年、輿石氏の何がいい?
>━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 阿比留 瑠比
>
>政治の世界は栄枯盛衰、権力者の移り変わりが目まぐるしい「ドッグイ
>ヤー」だ。そんな過酷な政界にあって、枢要な同一ポストに長年にわたっ
>てとどまるという離れ業を演じているのが、民主党の輿石東参院議員会長
>である。
>
>輿石氏がこの地位に就いて、6月12日で丸7年となった。5月には喜寿
>(77歳)を迎え、ますます元気な様子なのは、誠に慶賀に堪えない。
>
>とはいえ、民主党が一体何の目的と成算があって輿石氏にポスト独占を許
>してきたのかはさっぱり分からない。輿石氏に重責を担う政治手腕や理念
>が果たしてあるのかも甚だ疑問だ。
>
>「参院選勝利、みんなで力を合わせていきたい。よろしくお願いする」
>
>輿石氏は6月12日の党参院議員総会でこうあいさつした。日ごろから「顔
>合わせ、心合わせ、力合わせ」を口癖にしており、言っている内容は十年
>一日のごとく代わり映えがしない。
>
>だが、まるで時代の潮流を無視するように居座る輿石氏とは対照的に、政
>界は大きく変遷してきた。
>
>輿石氏が参院議員会長に就いた平成18年6月の時の首相は、小泉純一郎氏
>だ。それから首相は安倍晋三氏→福田康夫氏→麻生太郎氏→鳩山由紀夫氏→菅
>直人氏→野田佳彦氏から再び安倍氏へと7代変わった。時代はダイナミッ
>クに動いても、輿石氏はずっとそこにいる。
>
>その間、民主党は野党から悲願の政権交代を果たして与党となり、今度は
>下野の悲哀を味わった。民主党が大敗した昨年12月の衆院選では、輿石氏
>は選挙責任者である党幹事長を兼任していたが、責任を取って参院議員会
>長の地位から降りることはなかった。
>
>鳩山政権では首相の鳩山氏をかばおうとせず、8カ月余で辞任させた。菅
>政権では22年の参院選で自ら率いる参院民主党を敗北させ、「党内融和」
>を期待された野田政権では約70人の離党者を出す始末だった。
>
>「離党防止策があるんだったら、ぜひ教えてくれ」
>
>輿石氏は今年4月の記者会見では、記者団にこう問いかけている。国民は
>むしろ民主党に、「輿石氏のいいところがあるんだったら教えてほしい」
>と聞きたい気持ちではないか。
>
>そうなると、輿石氏自身が改選を迎える3年後の参院選まで、10年間も党
>参院議員会長の座にとどまる可能性が高いのである。これはもはや「怪現
>象」だ。
>
>かつて自民党で「参院の法王」「尊師」と畏怖された村上正邦元労相と、
>「参院のドン」と呼ばれた青木幹雄元官房長官の党参院議員会長在任期間
>はそれぞれ約1年半と約3年だ。この事実と比べても、現状がいかに異様
>かがわかる。
>
>その村上氏は、輿石氏のあり方について手厳しい。
>
>「長いねえ。参院議員会長として実績を上げてきたならまだいいが、何も
>ない。もう役割は終わったし、これからやるべきこともない。これまでの
>責任を取って早く引退すべきだ」
>
>それでも、民主党からは輿石氏に代わって自分が参院議員会長を引き受け
>ようという議員は出てこないのか。参院第一党が、そこまで人材が枯渇し
>ているというのなら、何をか言わんやだが…。
>
>産経ニュース【阿比留瑠比の極言御免】2013.6.13
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━━━━━
>自民党は「輿石副議長」を認めるな
>━━━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 杉浦 正章
>
>公正な議会運営が出来るはずがない
>
>首相問責決議などを軸に散々自民党政権を揺さぶってきた参院民主党議員
>会長・輿石東が、その"功績"で時価100億円を越える副議長公邸で日教 組
>を集めて呵呵大笑するのだろうか。
>
>おまけに先の通常国会では生活代表の小沢一郎と組んで首相・安倍晋三の
>問責決議を可決させ「問責の結果が出た以上安倍内閣は認めない」と言明
>しているのだ。これで公正な議会運営が可能だろうか。
>
>自民党がこの人事に賛成するとすれば、参院を陰謀の府と化して、政権を
>簒奪(さんだつ)した張本人に"追銭"をやる以外の何物でもあるまい。
>
>輿石が参院議員会長に就任したのは2005年の小泉純一郎政権時代だ。 以
>来輿石は参院民主党に君臨し、小沢と組んで政局を大きく左右してき
>た。とりわけ2007年以降はねじれ国会をフルに活用して政権奪取への道を
>ひた走りに走った。良識の府であるはずの参院を陰謀の府と化してし
>まったのだ。
>
>2008年には日銀総裁人事にクレームを付け、同人事は戦後はじめてたなざ
>らしとなった。首相・福田康夫は結局退陣に追い込まれた。この成功に味
>を占めた輿石は、ねじれをフルに活用して政権を揺さぶり、ついに政権交
>代を実現させた。
>
>しかし参院議員会長として何を成し遂げたかと言えば、前回と今回の2度
>にわたる参院選大敗北だ。昨年は総選挙に幹事長として臨んだが、完敗し
>て政権交代となった。輿石が責任をとるべき場面は山ほどあったが、すべ
>て責任回避ですり抜けている。
>
>野田政権では約70人離党者を出したが「離党防止策などあるわけがな
>い。あれば教えてほしい」と開き直ってそのままだ。
>
>先の通常国会でもねじれの活用は続いた。民主党が賛成して成立させた定
>数是正法に基づく衆院の区割り法案を、採決をしないまま長期に参院でた
>なざらしにして、結局自民党が衆院における3分の2の多数で成立させざ
>るを得ない状況に追い込んだ。
>
>参議院外務委員長・川口順子の訪中が会議の都合で一日遅れたことに難癖
>を付け、問責で解任した。極めつけはだれがみても問責に値するようなこ
>とはやっていない安倍の問責の可決である。
>
>こうして小泉以来7代にわたる政権を5期7年に亘り、陰謀と策謀で揺さ
>ぶり、影響力を行使し続けた輿石は、参院選後も海江田万里を担いで代表
>の座に居座らせ、さらなる党内支配を続行する構えを見せた。さすがに民
>主党内にも反輿石ムードが広がり、参院若手議員ら約15人が25日、輿石に
>副議長就任を求める署名を渡した。
>
>輿石は「気持ちはありがたい。少し考えさせてほしい」と即断を避けた。
>それはそうだろう。党内事情と自民党の出方を考えればやすやすと乗れる
>話ではない。若手議員らの動きには、輿石を副議長に祭り上げて、政局か
>ら遠ざける意図がありありと見えるからだ。
>
>輿石は幹事長人事でも労組出身の大畠章宏を押し込み、海江田を労組グ
>ループの操り人形とすることに成功した。しかし、前原、野田グループの
>役員が次々に辞職するなど党内抗争の芽は一段と深刻化している。
>
>いったん議員会長のポストを離れたら、何が起こるか分からない場面でも
>ある。ただでさえ「参議院選挙で大敗した責任は参議院民主党を長年率い
>てきた輿石氏にもある」(民主党幹部)という声が強いのである。
>
>さらに輿石は、自民党が副議長人事に果たして賛成に回るかどうかおぼつ
>かないのであろう。臨時国会は来月2日に召集され、選挙結果を踏まえ、
>参院議長は第1党の自民党から、また副議長は、慣例に従えば第2党の民
>主党から選出される決まりとなっている。
>
>議長については、自民党は副議長・山崎正昭を昇格させることに内定して
>いる。しかし副議長を"宿敵"輿石にするかどうかは未知数である。現に民
>主党執行部が29日非公式に「輿石副議長」を打診したのに対して、自民
>党側は難色を示している。
>
>それはそうだろう「安倍内閣を認めない」と公言した人物を副議長として
>認めるほどお人好しであるわけがない。だいいち日教組のドンが国権の最
>高機関のナンバー2に座って、果たして公平な議会運営が出来るだろう
>か。自民党にしてみれば「味噌汁で 顔を洗って出直してこい」と言い
>たいところでもある。
>
>同党内には輿石への反感が強く、執行部が無理に輿石で妥協すれば棄権票
>が多数出る可能性も否定出来ない。参院を陰謀の府と化した張本人を麻布
>永刈坂の1440坪の豪邸の主にさせるべきではない。税金の無駄遣いが 極
>まる。
>
> (政治評論家)<2013年07月30日>
>
>
>
>
>━━━━━━━━━━
>すべて毛沢東の猿真似
>━━━━━━━━━━
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
> 平成25(2013)年7月30日(火曜日)
> 通巻第3992号
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>
> すべて毛沢東の猿真似、武漢に3日間も滞在し、ぶつぶつと演説ばかり
> 習近平は毛沢東が好きだった豚の角煮をたべて
>*********************************
>
>湖北省武漢に毛沢東は38回も訪問し、ここで66人の内外要人と会見した。
>
>そうだ、オレは毛沢東のように偉いんだ。習近平は自らそう信じ込むこと
>によって中国の夢を実現する指導者として振る舞いたい。だから7月21日
>から23日まで武漢に滞在して、つぎからつぎへ思いつきを発表した。
>
>習執行部は内部の主導権争い、権力状況が錯綜している。
>
>あまりの頼り無さに江沢民がキッシンジャーを招いて「習近平は優秀な指
>導者だ」と持ち上げたことを意図的にリークし、応援歌を送ったが、逆に
>言えば習近平は無能ぶりを曝していることになる。
>
>くわえて習近平を軽くみる団派が政治局全体では多数派。前にも指摘した
>ように、序列8位の李源潮(国家副主席)が第3位から7位の政治局常務
>委員をさしおいて、北朝鮮を訪問した。
>
>序列9位の王洋(副首相)は「米中経済戦略対話」を主導するため渡米し
>た。無能の習近平や上海派の4人(劉雲山、張?江、張高麗、愈正声)に
>は任せられないからだ。
>
>太子党仲間の王岐山には「反腐敗キャンペーン」の責任者を押しつけ、習
>は宴会へ行っても高級酒に手を出さず、アワビをたべず、ひたすら豚の角
>煮を所望する(理由は毛沢東が無類の豚の角煮好きだったから)。
>
>かくて北京の高級レストランはがらがら、従業員の多くが解雇されて、つ
>いには高級ホテルもがらがらとなった。マオタイはバーゲンセールを始めた。
>
>
> ▼贅沢な宴会ばかりか、政府庁舎の新築工事も禁止された
>
>日頃、相手にもしていなかった小国の大使館から昼飯でも、と呼ばれる
>と、最近は党幹部もいそいそと出かける。理由は外交上の仕事であり、ワ
>インがでても、それは外交上呑まなければいけない。
>
>いま反腐敗キャンペーンによってマオタイ酒を飲んだり、アワビをたべ
>て、その写真がブログにアップされただけで左遷、停職処分など粛正の嵐
>が吹いている。まさに文革以来、これは「整風」である。
>
>しかも向こう5年間、新たな政府庁舎の建設を禁止する通達が出た。
>
>習近平は武漢で真っ先に毛沢東旧居を訪問し、随行した湖北省党委員会書
>記の李鴻忠と同省省長の王国生に対して「ことしは毛沢東生誕120年であ
>る。旧居を改築し、革命愛国基地とするように」と命じた。
>
>猿まねを前にも演じた男がいる。1992年のトウ小平の「南巡講和の旅」
>は、この湖北省武漢から開始され、トウは「党の問題は形式主義、官僚主
>義に陥っていることである。電話一本ですませる事柄を、会議をやる必要
>はない。長い会議に長い文章に長い演説、内容は重複しており、新しいこ
>とは何もなく、この形式主義を打破せよ」とトウ小平は武漢で演説したのだ。
>
>猿まね現代版を実践する習近平は、「形式主義、官僚主義、享楽主義、そ
>して奢摩主義。これら4つの風を是正しなければならない」と言った。
>
>もともと習近平が総書記就任後まっさきに行ったのは深センだった。トウ
>小平の「南巡講和」の真似をしようとしたのだが、誰も注目せず、むしろ
>このときは軍区、戦区、海軍基地を訪問したことに注目が集まった。
>
>「戦争の準備をせよ」という軍への緊張を強いた演説に世界のマスコミは
>注目したが、それ以後の行動をみていると、やはり予想通りに習近平は軍
>を抑えておらず、とりわけ総参謀部が習演説にまったく反応していないの
>だ。
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ♪
>樋泉克夫のコラム
>@@@@@@@@
>
>【知道中国 942】
> ——「支那の堕落を曝しているようで見苦しい」(長与の下)
> 「大同」(長与善郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
>
>
> ▽
>日米開戦2ヶ月前の昭和16年10月にはマニラでは米・英・中・蘭の4ヶ国に
>よる軍事会議が開かれた。ABCD包囲網による対日軍事連携である。同じ10
>月の9日朝、長与は北京駅を発って大同に向った。
>
>汽車は「蒙疆、即ち蒙古連盟自治政府という妙な名前の領域」に入り、居
>庸関を経た先の「有名な八達嶺」の駅に停車する。蒙古連盟自治政府と
>は、昭和14(1939)年11月に日本側の肝いりで親日派の蒙古王族である徳
>王を主席として発足した親日政権で、正式には蒙古聯合自治政府と呼ぶ。
>
>汽車が停まっている間に密輸業者らしき者の逮捕劇を目撃したが、荒々し
>い態度の検査官に対しても犯人に悪びれた様子は見られない。「土台図々
>しく、生易しい温情主義などでは実際取締れず、支那人自身の警官でも矢
>張り殴る所なのだろうと思った」。
>
>それというのも、「現に支那人の警察官が洋車曳きが五月蝿く客にせびる
>というだけでぴしぴし鞭で殴り、一方は又いくら殴られても平気で客に乗
>車をせびる光景を僕は嘗て揚州で見たことがある」からである。「土台
>図々し」い。だから「生易しい温情主義」は返って仇となるわけだ。
>
>「蒙古の奥から北京に通う駱駝の隊商の中継駅であり、今は蒙疆政府の所
>在地」である張家口に到着する。その印象を「殆ど完全に漢人化された蒙
>古人の見穿らしい馬具屋なぞがぼつぼつ見えはするが、考えてみれば実際
>に於て支那内地同様のこの町が、今だにそんな濃厚な蒙古色を留めている
>筈もない」と綴っている。
>
>「馬具屋なぞが」「見穿らし」かろうがなかろうが、そんなことはどうで
>もいい。注目すべきは「殆ど完全に漢人化された蒙古人」と見抜いたこと
>だろう。
>
>「蒙疆政府の所在地」とはいうが、住人は「殆ど完全に漢人化された蒙古
>人」であり漢人なのである。だから張家口は「支那内地同様のこの町」
>だった。
>
>清朝時代を通じ、食い詰めて故郷を棄てた漢人は怒濤のように満洲の沃野
>に入植し農地を切り開き、蒙古では牧畜のための牧野が農地に浸食され、
>いつか知らぬ間に彼らは満蒙の地を自らの生活の根拠地に"大改造"してい
>た。満蒙、蒙疆とはいうものの、漢人の土地に変じていたのだ。
>
>張家口から大同までは「いかにも朔北という語を想わせる満目蕭条であ
>る。何か種子位は蒔いてあるのか、唯涯しもない坦々たる黄土のうねの間
>を時々、同じ色の大きな兎が汽車に驚いて走るのを見る位のものである」。
>
>やがて「単に風景としての印象からいうと、・・・平地の中にポツンとあ
>る廃都といった感じ」の大同に到着する。
>
>翌日、雲崗の石窟行きのバスが出るまでの時間つぶしに、有名な寺や道具
>屋を見て回ったが、「何一つ碌なものはない。絵はがきでも買おうと雑貨
>店に這入ると、本屋を兼ねていて、岩波新書の僕の本まで並んでい」たと
>いう。
>
>満州事変勃発から10年、盧溝橋事件から4年が過ぎ、日米開戦前夜の大同
>の雑貨屋で、いったい誰が長与の書いた岩波新書を買うというのだ。それ
>にしても、どんな流通ルートを辿って岩波新書が大同の雑貨屋の店先に並
>んでいるのか。考えるほどに不思議だ。
>
>「いよいよバスは出た」。「雲崗まで約一時間足らず」。やがてバスから
>降り、石窟に入り無数の石仏に対す。「それからの二時間を・・・唯ただ
>貪り観ることで夢中に過ごした」末に、「漢民族と、その文化の個性の根
>強さというものを思わずにはいられない」と呟く。
>
>それから8年後の1949年、中華人民共和国の誕生だ。日本人は「漢民族
>と、その文化の個性の根強さ」——長与のいう「文化」に、敢えて「接待」
>の2文字を冠して「接待文化」と呼んでおく——に籠絡され、新たに誕生し
>た国を「道徳国家」「道義国家」などと思い込まされてしまう。
>その後遺症は現在もなお癒えることなく、日本を翻弄し続ける。
>《QED》
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> 宮崎正弘の新刊 『中国バブル崩壊が始まった』
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ♪♪
>宮崎正弘の新刊 大好評発売中!
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> ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
>
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>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> 読者の声 どくしゃのこえ READERS' OPINIONS 読
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ♪
>(読者の声1) 最近、台湾に関心を持つ人にとって興味深い本が出版され
>ましたので紹介いたします。本の題名は『台湾の環境行政を切り開いた元
>日本人』(まどか出版)。
>
>
> http://www.madokabooks.com/
>
>日本時代を懐かしむ台湾人の手記は数多く出版されていますが、外省人の
>牛耳る官界での実情を記したものはあまりなかったので、この本は資料的
>価値も持っているかと思われます。
>
>著者は台湾大学化工科同級生でも2人という高等官試験に合格し、京都大
>学への留学経験もあるというエリートですが、官界での出世に絶望し2度
>ほど転職を試みています。
>
>しかし経済発展とともに顕在化してきた環境問題を契機に俄然頭角を現
>し、15年に亘って台湾の環境行政を取り仕切り、行政院環境署(日本の環
>境省に相当)設立にまで漕ぎつけています。
>
>また昔の総督府での普通文官試験の有り様や日本留学への経緯など各種の
>エピソードも豊富です。
>
>戒厳令下の閉塞された状況で海外留学には嫉妬による密告が頻発し、空港
>での逮捕も珍しくなく「厳しい審査を通過しても、飛行機が飛び立つまで
>は安心できない」と云われていたことなどなど。なお、序文は李登輝元総
>統が書いておられます。(IT生、千葉)
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━━━━━━
>平等院鳳凰堂「平成の大改修」に賛否
>━━━━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 渡部 裕明
>
> 平等院鳳凰堂(ほうおうどう)(京都府宇治市)といえば、10円硬貨の
>絵柄にも採用されている日本を代表する名建築だ。その鳳凰堂の外観が来
>春、一新される。
>
>京都府教育委員会が進める「平成の大改修」で建物全体を赤く塗り、鳳凰
>に金箔(きんぱく)を施すなどして平安時代の創建時の姿に近づけること
>が決まったのだ。
>
>現在の地味で枯れた印象から、「真っ赤で金ピカ」の姿に大変身するわけ
>だが、この改修をめぐり「歴史的に意義がある」「いや古色が失われ、違
>和感を覚える」と研究者らの間で賛否の声がわき上がっている。
>
> ◆「丹土塗り」に復原
>
> 「新しい鳳凰堂の姿に期待してほしい」
>
>7月9日、平等院で記者会見した神居(かみい)文彰住職と鶴岡典慶・府
>教委文化財保護課副課長は、こう言って胸を張った。
>
>国宝で、世界遺産にも登録されている平等院。大改修は平成2(1990)年
>から始まった。その過程の発掘調査で、天喜(てんぎ)元(1053)年、関
>白・藤原頼通によって創建された際は屋根瓦が木製だったのが、約半世紀
>後の修復で、現在のような粘土瓦による総瓦葺(そうかわらぶき)になっ
>たことなどが明らかにされた。
>
>平成大改修の仕上げは外観の彩色、つまり柱や扉の塗り替えと、屋根を飾
>る鳳凰などの手直しである。
>
>国宝建造物などの修復にあたっては、可能な範囲で古い形式や仕様に復原
>する方針が取られる。はっきりした痕跡などが確認されれば現状を改め、
>古い形態に戻すのだ。
>
>鳳凰堂は戦後間もない昭和25年に修理された。その際の外観の彩色は、
>鉛を焼いて作った赤色顔料の「鉛丹(えんたん)」で塗り直した。しかし
>今回、古い瓦に付着した顔料を分析したところ、かつては鉛丹でなく酸化
>鉄と黄土を混ぜた「丹土(につち)」だったことが判明した。
>
>同じ赤色顔料ながら、丹土は鉛丹に比べてより落ち着いた色調になる。最
>近再建された平城京大極殿(だいごくでん)も丹土塗りで、費用もほぼ同
>じことから、府教委は丹土塗りの採用を決めた。
>
>昭和の修復では、柱の下方は鉛丹を塗らないなど、古色を重視していた。
>今回は柱をすべて塗り、赤色が目立つようにする。
>
> ◆「特注瓦」も復活へ
>
>彩色とともに注目されるのは、軒瓦を12世紀初頭のものに変更すること
>だ。発掘で出土した瓦は、平等院の荘園だった向山(むかいやま)(大阪
>府八尾市)の瓦窯(がよう)で焼かれていた。軒丸瓦のデザインはハスの
>中心に巴文(ともえもん)があり、平等院用の特注品だった。これが、実
>に900年ぶりに復活する。
>
>それ以上に目を引くのは、金具類に金箔を押すことだろう。鳳凰堂のシン
>ボルで名前の起源の鳳凰は青銅製だが、創建当初は金鍍金(ときん)=
>めっき=されていたことがわかっており、今回、金鍍金か金箔押しで復原
>される。
>
>また左右の翼廊(よくろう)の屋根を飾る「露盤宝珠(ろばんほう
>じゅ)」も金色に変わる。こうした変化を、観光客はどう感じるのだろう。
>
>創建時の姿への復原がいいのか、くすみなどの経年変化が現れた現在の姿
>を大切にすべきか。古建築を多く抱える奈良や京都では、大きな化粧直し
>があるたび、議論が巻き起こった。
>
>昭和56(1981)年、薬師寺に西塔が再建された際、外観は創建時を想定し
>て極彩色に塗られた。この時は「"凍れる音楽"と例えられる東塔(国宝)
>の古色にそぐわない」と地元から大反対が起きた。
>
>清水寺三重塔(重文)は修理の際の調査で創建時は極彩色だったことがわ
>かり昭和62(1987)年、復原された。寺側は渋ったが、その後、西門
>(同)も極彩色で塗り直され、景観は華やかになった。
>
>一方、「天平の甍(いらか)」として有名な唐招提寺金堂(国宝)は平成
>12(2000)年から解体修理されたが、彩色面では現状を変えなかっ
>た。創建時の彩色も一部判明したが、全体の復原には「資料不足」(文化
>庁)と判断されたためだ。
>
> ◆答えが出るのは来春
>
>平等院鳳凰堂についても、専門家や歴史ファンから「創建時の姿を知るこ
>とは意義がある」「せっかくの『古色』が失われ、『わび・さび』の感覚
>からも外れる」と、さまざまな声が上がっている。
>
>平等院修理の方針について学識経験者らが話し合う「修理委員会」委員
>長、斎藤英俊・京都女子大教授(建築史)は「歴史的に裏付けされた形態
>に戻すのは基本方針。鳳凰堂には宗教施設と文化財という両面があり、最
>初は違和感があるかもしれないが、10年もたてば慣れる」と話す。
>
>一方、「もう少し議論すべきだ」と主張するのは杉本秀太郎・国際日本文
>化研究センター名誉教授(フランス文学)。重要文化財に指定されている
>杉本家住宅に住み、祇園祭の懸装品(けそうひん)の復原にも関わってき
>た杉本氏は「外観は大事で、できるだけ現状から変えない方がいい。祇園
>祭の懸装品でも違和感を覚えるものがある。元の色に戻したあと、もう一
>度古色を加えるなど工夫してはどうか」と指摘する。
>
>彩色などの工事は、間もなく始まる。作業を終え、鳳凰堂を覆う工事用素
>屋根(すやね)が完全に取り払われるのは来春だ。訪れた観光客は、どん
>な「答え」を出すのだろうか。
>
>産経新聞 7月29日(月)9時0分配信
>
>
>
>
>━━━━━━━━
>奥浩平と中原素子
>━━━━━━━━
>
>
> 平井 修一
>
>1965年(昭和40)に21歳で命を絶った奥浩平とその遺稿集「青春の墓
>標」、そして奥浩平が恋していた中原素子について知っていることを書い
>ておきたい。そうしないと小生が死ねば、特に中原素子についての情報は
>多分永遠に消えてしまうから、些事ながらも書き残す意味はあると思う。
>
>時間がないので結論から言えば、1)中原素子の結婚前の姓は「野中」
>で、名は不明である。2)奥浩平は本名で確かに実在していたが、奥家に
>ついては、奥浩平の墓の所在、彼が慕っていた兄の紳平の消息などを含め
>て不明、謎である。
>
>なぜ小生が奥浩平に関心を寄せるかという話から始めたい。奇妙というし
>かない縁なのだ。
>
>■奥浩平は1943年10月9日 - 1965年3月6日。東京生まれ。1959年、都立青
>山高校に入学。1960年、樺美智子の死に触発されて安保闘争に参加する。
>1963年横浜市立大学文理学部に入学。7月に中核派に加盟し、原潜寄港阻
>止闘争、日韓会談反対闘争などに参加する。
>
>小生は奥浩平から6年遅れて1969年に横浜市立大学商学部に入学。2年生の
>1970年に田中正司教授のマルクス主義経済学を専攻し、マルクスの「経済
>学・哲学草稿」を研究した。そのころに小生は同好会として「現代史研究
>会」を立ち上げたのだが、奥浩平は1964年の日記にこう書いているのである。
>
><横浜市立大学では一人、商学部・田中正司助教授が講義のテキストとし
>て「経済学・哲学草稿」を用い、意欲的に研究されている。・・・昨年
>夏、現代史研究会の1年生5名によって合宿研究会がもたれた>
>
>小生は奥浩平の名は大学入学後に知ってはいたが、「青春の墓標」を読ん
>だのは1971年秋、獄中である。その前に小生は田中正司先生を知り、現代
>史研究会を設立している。不思議な縁である。
>
>■奥浩平は1963年7月に中核派に加盟した。小生は1970年4月から中核派と
>行動を共にしたが、奥浩平のことなどまったく意識にはなかった。友達か
>ら「中核派の4.28沖縄奪還闘争の集会に行かないか」と誘われたから行っ
>ただけである。
>
>当時はやたらと集会やデモが多かったから、過去のことはほとんど話題に
>ならず、横浜市大でも奥浩平を実際に見知っているのはごく一部の教授、
>助教授ぐらいで、ほぼ忘れられた存在だった。
>
>彼の場合は「政治利用できる死」ではないからで、噂話として「奥浩平は
>開学以来3本の指に数えられる俊才だった」「なかなかハンサムだった」
>というのが聞こえて来るくらいだった。
>
>奥浩平と同じ大学、同じ先生を評価し、同名のサークルにかかわり、同じ
>中核派と言っても、それだけなら「ふーん、そういうこともあるか」で終
>わりなのだが、小生は図らずも中原素子を見ることになったから、「うー
>ん、これは何か縁があるのか」と思わざるを得ない。
>
>■奥浩平は1965年2月、羽田で行われた椎名悦三郎外相訪韓阻止闘争で警官
>隊と衝突し、警棒で鼻骨を砕かれ負傷、入院。退院後の3月6日、自宅で大
>量の睡眠薬を服用して自殺した。
>
>小生は6年後の1971年9月16日に逮捕され、同年12月21日、保釈。マルクス
>主義にも疑問を感じていたし、「もうすべては終わったのだ」という厭世
>観から自殺ばかりを考えていたが、薬が手に入らなかったこと、リスト
>カットはずいぶん痛そうだということ、首つりは尿を漏らすことなどで決
>断がつかなかった。
>
>両親に迷惑をかけたので72年の1年間は家業の食料品店を無給で手伝って
>いたが、73年からは自立を目指した。その頃は貯金が底をつき、仕事を探
>さなければならなかったこともある。
>
>以下は小生のメモから——
>
>同志Sの紹介で小生が初めて中核派系の救援連絡センター(東京・虎ノ
>門)を訪れたのは1973年正月の4日である。その日から小生はその事務所
>に通い始め、自らを含めた三里塚裁判の被告に対する連絡事務や、勾留中
>の同志に対する接見や差し入れ、さらにデモや集会の際に対立セクトの襲
>撃に備える情報活動「レポ」などを行った。
>
>といっても小生が東急東横線学芸大学駅前にある「有限会社ノナカ」とい
>う建築金物店に就職するまでのわずか2カ月ほどでしかなかった。
>
>ノナカという店は、救援連絡センターの幹部、三浦暉(あきら)の紹介に
>よるものだった。三浦は「清掃局の仕事はどうか。朝が早いが、その分早
>く切り上げられ、夕方から活動ができる」と説明した。
>
>Sも「清掃局の仕事はだいたい3時半には終わるから、その後に被告団の
>事務局を手伝ってくれればいいよ」と賛成した。小生も清掃局の仕事に決
>めかけていたが、数日すると三浦はノナカに勤めてはどうかと勧めてきた。
>
>「ノナカは僕の友達がやっている店でね、そこに君が勤めているといろい
>ろ彼と連絡が取りやすく都合がよいので、そうしてくれ」という。小生は
>どこに勤めるかについて大して興味はなかったので、そうしますと答えた。
>
>小生は73年3月からノナカに勤め始めた。家族企業で、三浦の友人である
>野中俊夫が店を仕切っていたが、一線を引いたとはいえ頑固な父親があれ
>これ指示し、口うるさい母親も手伝い、妹は経理を担当していた。従業員
>は小生と詩人・吉田修の2人である。工務店など安定した得意先がいくつ
>もあり、小規模経営ながら精いっぱいに繁盛していた。小生は店員兼配達
>である。
>
>後に小生は野中俊夫から打ち明けられたが、彼は1968年10.21新宿騒乱事
>件の被告であり、小生と同様、保釈中の身だった。中核派のシンパであ
>り、三浦個人へ定期的にカンパをしているのみならず、大きな闘争のたび
>に自家用車を提供し、かつ商売で扱うヘルメットを惜し気もなくカンパす
>るという、中核派にとっても大切なシンパであった。
>
>ある日、配達中のトラックの中で野中俊夫が急に「平井君、横浜市立大学
>だったよね、『青春の墓標』読んだ?」と聞いた。小生が「読んだ」と答
>えると、「あの中に出てくる中原素子って、僕の姉だよ」と言った。
>
>しばらくしてから小生は、たまたま子供を連れてノナカに里帰りしている
>「中原素子」をちらと見た。知的で美しいが、ちょっと寂しげな女性だった。
>
>小生は「奥浩平が彼女の心をとらえていたら、あるいは中原素子が浩平の
>愛にこたえていたら、浩平は死を選ばなかったろう」と、思っても仕方が
>ないことや、「彼女はどんな気持ちで暮らしているのだろう」などと考え
>たりした。
>
>野中俊夫によると、ばりばりの社会党員であった父親は、素子の考えや行
>動をことあるごとにたしなめ、言葉で説得できないと、ついには大きな算
>盤で彼女の頭を殴り、駒がばらばらと床に散ったこともあったという。
>
>小生はノナカに勤めたことに何か縁があったような気がした。中原素子も
>その弟も、そして小生らも、何かを押えこむことによって、かろうじて生
>きているような感じだった・・・
>
>■「青春の墓標」の前書きと後書きは兄の奥紳平が書いているが、プロの
>作家並に非常に文章がうまいし、中核派のことをよく知っているので、奥
>紳平は仮名であり、もしかしたら中核派の大幹部ではないかと小生には思
>われた。
>
>中核派創設者の一人である北小路敏がこの本に文章を寄せているが、奥紳
>平と北小路は同志ではなかったか。奥紳平の人物およびその後については
>全く分からず、そのために「奥浩平自体も仮名なのではないか」と小生は
>疑問に思っていたのである。
>
>しかし、神奈川大学経営学部教授の常石敬一がこう証言している。
>
><私は昭和18年生まれで、奥浩平と目黒区立6中で同級生だったんです。
>奥は勉強ができたし、いい男だから女子にもモテたが、ある少女が自殺し
>たことが、奥浩平には恋愛についてのトラウマになっていた。私は大学は
>都立大で、奥浩平は横浜市立大学ですが、期せずして同じ白ヘルの中核派
>でした>
>
>奥浩平も中原素子も実在した。そして小生も遅ればせながら
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