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2013年3月31日日曜日

Fw: 真悟の時事通信(平成25年 3月 31日号)

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>嗚呼、永遠の少年工科学校、「十三人だけの区隊長」
>No.840 平成25年 3月31日(日)
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> 先日、防衛大学校の卒業式があった。
> 平河サロンを主宰する友人が、その卒業式で訓示した安倍総理の演説内容に怒っていた。
> 総理が、軍人の誉れある行動の例として、アメリカの「ハドソン川の奇跡」と同じくアメリカのセオドラ・ルーズベルト大統領のメキシコ義勇軍に関する演説を例に挙げたからである。
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> 友人は、日本軍の士官を養成する防衛大学校の卒業式訓辞において、日本の総理大臣たるものが、アメリカの例ばかりを話すとは何事か、我が日本軍にも自衛隊にも、涙が溢れる誇りある名誉ある物語があるだろう、総理は、アメリカの傀儡か、と怒るのである。
> 
> 例えば、平成十一年十一月十三時○二分、T33複座ジェット練習機に搭乗して入間基地を飛び立った
> 航空自衛隊の中川尋史中佐と門屋義廣少佐は、
>基地への帰投途上、同三九分「コックピットにスモーク!、緊急事態発生(エマージェンシー)」と打電した。
> 彼等は、その時直ぐに脱出(ベイルアウト)すれば命が助かったのに、脱出せずに墜落する機体にそれから三分三十秒間留まって炎が上がるコックピットの中で操縦を続け、機体を住宅地から入間河川敷上空までもっていって、同四十二分三十秒脱出した。
> しかし既に間に合わず、彼等は地面に激突して即死した。
> そして、T33の機体は、彼等の頑張りによって、住宅地を逸れて河川敷に墜落したので、彼等の最後の望み通り、住民の命は守られた。
> 彼等は、緊急事態の中において、ためらい迷うことなく人の命を救うために自分たちの命を犠牲にした英雄である。
> 
> そういえば、かつて確か小松基地を戦闘機に搭乗して離陸したアメリカ軍パイロットが、機体が故障したとき、ためらうことなく機体から脱出し、機体は住宅地に墜落して住民が死傷したことがあった。
>
> さて、この友人の話を聞いているとき、
>私は、平成十九年四月に殉職した
> 陸上自衛隊の建村善知少佐と、
>同二十三年七月に殉職した
> 航空自衛隊の川久保裕二少佐のことを思い出した。
> さらに、私が二十歳の時に、十八歳と十九歳で殉職した
> 少年工科学校生徒十三名のことを思い出したのである。
>
> 建村善知少佐は、沖縄の年間三百回以上病人の緊急輸送に当たるヘリコプター部隊に所属するベテランパイロットだった。彼の郷里は徳之島だった。
> 平成十九年三月末の夜間、「徳之島で急患」との連絡を受け、彼はCH47を操縦して沖縄から徳之島に向かった。そして、濃霧のなか、郷里徳之島の山に激突して殉職した。あと二回の飛行を終えれば、定年を迎える直前だった。
>
> 川久保裕二少佐は、平成二十三年三月の東日本大震災を切っ掛けにして急に増大した中共軍用機の我が領空への異常接近に備える東シナ海で、同年七月五日、F15戦闘機を操縦して訓練飛行中に消息を絶ち殉職した。
> F15を操縦する川久保少佐の東シナ海に於けるプレゼンスが、我が国土と領空を護っていたのだ。
>
> 冒頭に述べたように、防衛大学校に於ける安倍総理の訓辞に関する友人の怒りは、我が国の士官の卵に対して、彼等が見習うべき軍人の鑑として、アメリカ軍人の例ばかりをだしたことにある。
> この友人の怒りを聞いてから、私にも、以上の誇りある殉職した自衛官のことが心に浮かんだのだ。
> 諸兄姉も、この人々のことを覚えておられるだろう。
>
> しかし、次に述べる自衛官十三名は、四十五年前に十八歳と十九歳で殉職した。
> 自衛隊の幹部でも佐官でもない。
> 彼等、二十歳前で全員独身。妻も子もいない。
> 彼等の親御さんもご高齢か既に亡くなっておられる。
> 従って、彼等のご家族からも、まして我々からも、遠い彼方の人の如くなっている。
> しかし、彼等は、私の一歳下。私が大学一年生の時に彼等は殉職した。よく覚えている。
> また、彼等のことは、
>「ぼくらーは、首まで、泥まみれだが・・・隊長はいった、進めー・・・」とギターで弾く歌にもなった。
> この歌は、新左翼が猖獗を極める大学紛争時代の、自衛隊をちゃかしたような歌だったが、同世代の者にショックを与えた殉職だったことは確かだ。
> 従って、彼等の殉職とその後のことをここに記しておきたい。
>
> 十三人の少年自衛官殉職時の教官だった小田嶋 勇という方が、遺族を訪ねられた手記を十三回に渡って陸自幹部の機関誌「修親」に連載された。
> 本年二月、その手記をコピーして、四国の今治市在住の少年工科学校十八期の元自衛官渡辺伸吾氏が私に送ってくださった。
> 題して「十三人だけの区隊長」
> 私は、この「十三人だけの区隊長」を上京のおりに持って新大阪から新幹線に乗り、さっそく車中で読み始めた。
> そして十三人だけの区隊長の手記に、心を吸い寄せられるような思いになった。
> 暫くして、ワゴンを押してパーサーさんが来たので、
>私は顔をあげた。すると、パーサーさんが、ハッとしたように私を見つめた。私の目に大粒の涙がたまっていたからだった。
> 手記は、次のように始まる。
>
>   十三人だけの区隊長  小田嶋 勇
>「昭和四十三年七月二日、十三人の少年自衛官が殉職しました。
> 翌日、事故の責任者として、僚友の杉山一尉(仮名)は業務上過失致死事件の被疑者として逮捕されました。
> 事故から二ヶ月ほど経過した九月の中旬、私は、命を受けて、杉山君の弔問旅行に同行、
>宮崎県の山内家
>青森県の亀川家
>山形県の佐藤家と高橋家
>福島県の鈴木家
>石川県の出村家
>島根県の小出家
>福岡県の萩野家
>熊本県の藤森家
>鹿児島県の宮下家、弓指家、徳田家
>そして、最後に
>大分県の高倉家を訪問しました。
> 昭和四十四年六月二十日、杉山君は、禁固一年六月の実刑に処せられ、それから一年余り刑務所に収監されました。
> 十三生徒の十三回忌慰霊祭の行事に参加した数年後の昭和五十九年三月、私は自衛官の定年を迎えました。
> その定年記念として、十三遺族を弔問し、そして、それから更に、一年に一軒ずつ十三年かけて再度、弔問しました。
> 何故ここまでやるのか、訊ねる人もいますが、実のところ私にもよく分かりません。
> たぶん、何時の頃からか、また、どうしてなのか自分にも分からないのですが、この十三人生徒の、十三生徒だけの区隊長になってやろうと思ったからではないでしょうか。」
>
> そして、小田嶋 勇氏は、一人の生徒の名前を冒頭に掲げて一回の手記を書き、それは十三回にわたって連載された。
> その一回ごとの手記の冒頭に掲げられた殉職した生徒の名と生年月日と出身県を掲載順に次に記す。
> 心してその名を読まれんことを。
>
>1、故 三等陸曹 亀川 正
> 昭和二十四年六月十一日生まれ、青森県西津軽郡出身
>2、故 三等陸曹 山内 実
> 昭和二十四年四月三十日生まれ、宮城県登米郡出身
>3、故 三等陸曹 佐藤公男
> 昭和二十五年四月三日生まれ、山形県緑町出身
>4、故 三等陸曹 高橋 仁
> 昭和二十五年八月二日生まれ、山形県南陽市出身
>5、故 三等陸曹 鈴木和昭
> 昭和二十五年五月二十三日生まれ、福島県会津若松市出身
>6、故 三等陸曹 出村正夫
> 昭和二十五年九月九日生まれ、石川県羽咋郡出身
>7、故 三等陸曹 小山正人
> 昭和二十五年五月八日生まれ、島根県大田市出身
>8、故 三等陸曹 萩野 敏
> 昭和二十五年七月二十八日生まれ、福岡県春日市出身
>9、故 三等陸曹 藤森逸雄
> 昭和二十五年四月二十四日生まれ、熊本県下益城郡出身
>10、故 三等陸曹 宮下金次
> 昭和二十四年七月十二日生まれ、鹿児島県日置郡出身
>11、故 弓指光信
> 昭和二十五年二月十四日生まれ、鹿児島県揖宿郡出身
>12、故 三等陸曹 徳田順一
> 昭和二十五年八月十七日生まれ、鹿児島県姶良郡出身
>13、故 三等陸曹 高倉日出雄
> 昭和二十五年八月七日生まれ、大分県玖珠郡出身
>
> 以上の通り、殉職した彼等十三名は、大都会の出身者ではなく、海岸近くや山の中の田舎出身の生徒たちだ。
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> 昭和四十三年七月二日、神奈川県横須賀市御幸浜 少年工科学校内において、生徒十三名は杉山区隊長に指揮されて雨の中で訓練中、徒渉しようとした池のなかで溺れ殉職した。そして、彼等に池を渡れと命じた杉山区隊長が逮捕された。
> 小田嶋 勇さんの「十三人だけの区隊長」の手記は、昭和四十三年の殉職直後と昭和五十九年の定年時の十三人の遺族を訪問と、その後一年に一軒ずつ十三年をかけて弔問した記録である。
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> 第一回の手記は、亀川 正三等陸曹のことだ。
> 小田嶋さんが、逮捕されている杉山区隊長に面会に行くと、横須賀拘置所の面会室で、杉山隊長が、
>「亀川が・・・亀川のやつが・・・毎晩・・・出てくるんじゃよ・・・」と言った。
> 亀川君が、彼の夢枕に立つのだ。
> 亀川君の実家を訪問したとき、お父さんが、
>「この家から五分も走れば海です・・・、あんなに・・・、あんなに、泳ぎが上手な子が・・・どうして・・・どうして池にはまって死んだのか分かりません」と言った。
> それから家から五分ほどのところにある亀川君の墓に行き、杉山区隊長が墓に手を合わすと、大粒の雨がぱらぱらと降った。
> 小田嶋さんは、ああ・・・亀川君が泣いているな・・・と思った。
> 亀川君は、入隊以来杉山区隊長の下にいた。
> そして、「将来は、区隊長のような自衛官になりたい」と決意を述べる亀川君を、「お前ならできる・・・頑張れ」と区隊長は励ましていたという。
> 殉職当日、亀川君は先頭の杉山区隊長の直ぐ後ろを進んで池を渡りきった。そして、後ろを振り向くと、後続が溺れている。
> それを見た亀川君は、ためらうことなく再び池に入り、溺れている隊員を次々救い出したが、力尽きて池の底に沈んだ。
> 小田嶋さんは、亀川君は、いつも杉山区隊長の側を離れなかったので、命が尽きてからも郷里の津軽に帰らずに勾留されている区隊長の夢枕に立ったのだ、そして、区隊長が自分の墓に手を合わせたとき泣いていた、と思った。
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> 最後の十三回目の手記は、昭和五十九年の定年後、大分県の高倉日出雄三等陸曹の実家弔問だ。
> それは、次のように締めくくられている。
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>「高倉家の弔問を済ませたその年の十月、事故当時、少年工科学校の校長であった、高木成助・元陸将補が他界されました。
> そして、その十二月四日、杉山区隊長が、六十歳の生涯を閉じました・・・。
> 高木校長にも、杉山君にもぜひ聞いてもらいたいことがありましたが、みんな空しいことになりました・・・。
> ・・・あの世におられる校長は、三十年前と変わらない、いや、いよいよ馬鹿になっている私にあきれ果てて、いつものように言葉は厳しくこのように私を叱りつけ、しかし、目を細めて、優しく笑っておられるに違いないと思いました・・・。
>・・・あの事故以来二十九年、俺がどんな気持ちで過ごしてきたか、判るか・・・そんな杉山君の声なき声が聞こえてくるように思われて私は少し泣きました・・・。
> 平成九年四月二十六日、私は青森県の亀川家を弔問しました。
> 平成十年五月一日、宮城県の山内家を弔問する予定です。そして、たぶん、来年の夏頃、山形県の佐藤家と高橋家を弔問することになると思います。
> ・・・北海道の長い冬が終わり、そして、こぶしの花が咲く頃になると地図を調べ始めるのです。
> でも、今度は、山形県の二軒と、鹿児島県の三県まとめて同じ年に廻ろうと思っています。」
>
> 防衛省は、少年工科学校の制度を無くしたが、
> まさに、嗚呼、永遠の少年工科学校、
> 十三人だけの区隊長!
> 少年自衛官達の思いは永遠ではないか。
> 散る さくら 残るさくらも  散るさくら
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>西村真悟事務所
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