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> わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2986号
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> 2013(平成25)年6月23日(日)
>
>
>
> 国防軍・徴兵制・治安維持法: 山堂コラム 475
>
> 参議院の醜態に思う:前田正晶
>
> 銀行業の元祖・安田善次郎:伊勢雅臣
>
> 望郷の念を募らせていた与謝蕪村:毛馬一三
>
> トイレットペーパー:渡部亮次郎
>
> 話 の 福 袋
> 反 響
> 身 辺 雑 記
>
>
>□■■□ ──────────────────────────□■■□
>第2986号
> 発行周期 不定期(原則日曜日発行)
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>国防軍・徴兵制・治安維持法
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>
> 山堂コラム 475
>
>安倍・自民党が「憲法改正はまず96条の改憲規定から取り組む」と表明し
>た。憲法論議が俄(にわか)に盛り上がってきた。結構なこと。各社復刻
>版の「日本国憲法」が書店に平積みされている———
>
>居並ぶ与野党各会派の中で単純改憲反対というのはオモニ福島・社民党く
>らいのもの。日共もこのごろ護憲派ぶるようになったがこの党は違う。口
>先だけの擬態、敵は国体・本能寺。
>
>無党派層を含む大部分の国民はというと、これは未だ無関心。憲法が変わ
>るなどということはこれまでずっと想定外のことだったのだ。しかし戦後
>70年近く経って内外情勢も変わった。想定外だった原発も爆発した。
>
>晋三の「戦後レジームからの脱却」は本気のようである。更なる立派な憲
>法が出来るというのであればまあ反対することでもなかろうかと。
>
>かくして世の中は改憲ムードへと進む。問題はその方向と中身ということ
>になる———
>しかしこれまで発表された自民党をはじめ、一部新聞も出した改正案。こ
>れがどれもこれも悉(ことごと)くお粗末。内容は現行憲法に遠く及ばな
>い。旧・陸海軍の暴走、亡国寸前の大戦を齎した大日本帝国憲法よりも劣
>化ウラン。日本国の将来に相応(ふさわ)しい新しい基本法の体(てい)
>を為しているものはひとつもない。
>
>自民党が今度の参院選へ掲げた公約のうち「改憲主張」の元としたのは保
>利耕輔座長が去年4月にとりまとめた「憲法改正草案(保利草案)」であ
>る。平成17年に森喜朗委員長の下で取りまとめた「第一次素案」を下敷き
>にしている。
>骨格や文言、ちょっと目には現憲法とあまり変わらないように見える。そ
>こが味噌。しかし草案各条文を子細に点検すると一段と国家主義・軍国主
>義的色彩が強くなっているのが分かる。
>そもそもこの草案を主として執筆したのが元・自治官僚(磯崎陽輔・事務
>局長)。取りまとめたのが元・自衛官(中谷元・委員長)だから当然と言
>えば当然。
>
>第9条、所謂平和条項。同条に国防軍創設を付加する——これが出発点。今
>の自衛隊では役不足というのだろう。せめて韓国軍なみの体裁を整え、軍
>備を増強して中共の人民解放軍に対峙できるようなものにしたと・・・
>
>そうなると当然のことながら軍法会議や憲兵も必要になる。勿論徴兵制も
>視野に入ってくる。少子化で、それでなくても自衛官に成ろうという者が
>少ないのだ。徴兵制にしなければ若者を集めて軍備を増強することなど出
>来ぬ相談トテチテタよ・・・
>
>残る各条項もそれに辻褄を合せるために手直しせざるを得ない。例えば言
>論・結社の自由。規定した第21条。「集会、結社及び言論、出版その他一
>切の表現の自由は、これを保障する」(現憲法)
>
>これに[2]として余計なものを付加。「前項の規定にかかわらず、公益
>及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的と
>して結社をすることは、認められない——」
>
>ん?これって何だ。保障するとの文言を認められないという文言で否定す
>る。真逆の条文、その併記だ・・・付加した後段の[2]ははっきり言っ
>て戦前の悪名高き治安維持法そのものである。
>
>どう解釈しても「公益、公の秩序」とは「治安」と同義語。思想弾圧をや
>りまくった昭和前期への回帰。
>
>同・付加文を作ったとされる起草委員の一人は宣(のたま)う。「反国家
>的行動を取締ったり、反政府デモを規制する意図があるわけではない」
>(片山さつき参議院議員・元大蔵官僚)。しかし取締まる気が無いのなら
>初めからこんな条文付加する必要、全くネエ。
>
>一歩譲って、自民党やさつき女史、アカをしょっ引いたりはしないとしよ
>う。しかし政権政党が変わって大日本極右党や、いやマル共だって分から
>んぞ。政権取ったらこの条文を盾に政府批判の記事や反政府デモなどは徹
>底的に弾圧するだろう。その取り締まりのための特高やKGBといった組
>織も作るだろう。
>
>憲法は一党派の党利党略・その目的などのためであってはならない。昔な
>がらの自民党支持者でも96条変更の所謂「毛鉤り」になかなか引っ掛
>かって来ないのはそうした良識が働くから。戦争を体験した年寄りはまだ
>まだ日本に残っているのである。(了)
>
>
>
>━━━━━━━━━
>参議院の醜態に思う
>━━━━━━━━━
>
>
> 前田 正晶
>
>0増5減を審議せずに終わった参議院が非難されているようだ。批判して
>いる向きもあるようだ。マスコミはしきりに国会に「身を切ること」を求
>めているような論旨を展開するが、議員の定数を減らすことの何処か身を
>切ることなのか私には解らない。減らされる選挙区の議員が「生活が懸
>かっている」と悲壮のような訴え方をしていた。そういう者たちの国会ら
>しい。
>
>私は何はさて措いても「こういう程度の議員を選んだのは誰か」を問題に
>したいのだ。故に、マスコミの論調は見当が違うと思っている。良く「議
>員の職を辞する」という表現を聞く。
>
>確かに職なのだろうが、職業として生活まで賭けるのはとんでもない心得
>違いだろう。「お国のためならば無償でもやっていきます」という精神が
>ある者を選んで、初めて国政を担わせた方が良いだろうと思う。
>
>今朝ほど何処かのテレビで「そういう程度の者が参議院議員なのだ」と批
>判めいたことを言っていた。
>
>だが、上述のように私は民度に大きな問題があると思う。実名を挙げて民
>度を解説すれば、繰り返し言ってきたことだが、蓮舫や東国原に160万や
>170万票を入れてしまうのが首都東京の民度の高さなのである。
>
>「首都にしてこれだから地方は」等という論旨を私は展開しない。ではど
>ういうものか。昨日から何度か新宿区内の大久保通りと小滝橋通りを歩く
>機会があった。
>
>都議会の候補者が街頭で語り、ビラを配り、自転車から溢れるような笑顔
>で挨拶している情けない風景に何度も出会った。
>
>微笑みかけ、お辞儀をし、宜しくお願いし、頑張っておりますと喚くこと
>が選挙運動の基本的パタンであることを、情けないと思うとともに、余り
>にも有権者を舐めているのではないかと長年思っている。
>
>私は「是非とも買って下さい」とお願いするのは最低の営業マンだと思っ
>ている。「君から買おう」と思って頂けるように努力するのが営業マン
>シップである。
>
>あの人に国政なり、都政なり、区政なりを託そうと思って頂くように持っ
>て行くのが選挙運動だろう。今でもこの窓の下を具体性を欠く政策を叫ん
>でいる候補者が通っていく。
>
>長い年月を過ごした藤沢市でも、ここ新宿区でも、候補者と面付き合わせ
>たこともなければ、近くに来て真剣に政権や「選ばれたらこういうことを
>実現に真剣に努力します」というような具体的な話など聞いたこともい。
>
>今回の都議会議員選挙でも選挙公報が来るのも遅かったし、貼ってあるポ
>スターの笑顔を見せられても、何が何だが良く理解できない。
>
>一寸話は変わるが、嘗て、神奈川県の某市の市役所の選管委員長に「あの
>陰の実力者が何故自ら打って出ないのか」と尋ねたことがあった。答えは
>「おめーも解ってねーな。奴は自分で出ていくようなウマシカじゃねーん
>だよ」だった。実に解りやすい答えだった。
>
>国会議員の選挙でも運動の進め方はそう変わっていない。それでも誰かが
>当選していって生活の糧となる歳費を貰っている。現在では、野党勢はろ
>くに審議もせずに何とかして安倍人気を貶めようというコンテストをやっ
>ているだけだ。結論としては「矢張り選んだ方が悪いのではないか」と
>なってしまうような気がしてならないのだが、それで良いのだろうか。
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━
>銀行業の元祖・安田善次郎
>━━━━━━━━━━━━
>
>
> 伊勢 雅臣
>
>■1.明治日本を支える縁の下の力持ち
>
>明治27(1894)年8月1日、日清戦争の火ぶたが切られた。我が国が初め
>て経験する近代総力戦であるとともに、相手は世界の大国・清国である。
>
>渡辺国武蔵相は大手銀行首脳を呼んで、戦時国債発行について相談した。
>安田善次郎の姿も、その中にあった。第一回の起債は3千万円が計画され
>ていたが、当時の国家予算8千万円ほどに比べれば、その4割近い規模と
>なる。
>
>渡辺蔵相はすでに市中に出回っている国債の金利が5%なので、これだけ
>の大量発行を行うには6%の金利をつけないと消化できないだろうと考え
>ていた。
>
>ところが「5%で行くべきです」と反対したのが善次郎だった。政府が
>6%つけようとしているのに、なぜわざわざ銀行側が金利を下げようとす
>るのか、といぶかったが、善次郎の話を聞いていくうちに納得できた。
>
>善次郎は国民の愛国心を信じていた。今、国家の存亡をかけて大国・清と
>戦おうとしているのに、国民がその戦費調達のための国債を買わないはず
>がない、と善次郎は説いた。その熱弁に渡辺蔵相も大きく頷き、金利は善
>次郎の言うとおり5%とした。
>
>果たして募集を開始すると、3千万円の発行に対して、7千7百万円もの
>応募があった。政府は急いで第2回5千万円を発行。そのうち、善次郎は
>実に2千3百万円を引き受けて、政府の戦費調達を助けた。国家予算の
>1/4強の規模の国債を安田銀行一行で引き受けたのである。
>
>善次郎は事業面でも政府を助けた。日本で初めてコークスを用いた製鉄技
>術を確立した田中長平に融資して、釜石の鉱山を買い取らせた。田中は鉄
>鉱石採掘に成功して、欧米からの鉄鉱石輸入を大きく減らし、外貨の節減
>に貢献した。
>
>こうして善次郎は銀行家として縁の下の力持ちとなり、明治日本を支えた
>のである。
>
>
>■2.「陰徳を積む」
>
>「陰徳を積め」とは、善次郎が子供の時から、父親から叩き込まれた精神
>であった。人に褒められようとして善行を施すのではなく、誰にも知られ
>ずとも人のためになることを黙々と行え、というのである。
>
>富山の下級武士の家に生まれた善次郎は、子供の時から、農作業や野菜の
>行商で家を助けたが、安政5(1858)年、20歳にして東京に出てから、両
>替商で奉公を始めた。
>
>土間に沢山の履き物が乱雑に脱ぎ捨てられていたが、仕事の合間を見て
>は、それらを揃えた。紙くずなどが落ちていると、拾って屑籠に入れる。
>父親に教えられた「陰徳を積む」ことが自然にできるのである。そんな善
>次郎を主人は可愛がってくれた。
>
>25歳の時に独立して、両替商兼乾物屋を始める。毎朝4時、まだどこの家
>も起きていないうちに起きて、向こう三軒両隣の前を掃き清め、水を撒く。
>
>乾物を売るにしても、良いものから売った。古い物が売れ残っても、それ
>は自分の損とした。そんなやり方が評判を呼び、瞬く間に客の数が増え
>て、利益が出るようになっていった。
>
>自分の利益ばかり考えていると利益は逃げて行ってしまうが、陰徳を積ん
>でいると、勝手に利益が向こうからやってくるという商売繁盛の秘訣を、
>善次郎はすでに身につけていたのである。
>
>
>■3.両替商として、幕府を支える
>
>善次郎が両替商として頭角を現したのは、幕末に幕府から古い小判を回収
>して新しい金貨に交換する業務を一手に引き受けてからである。
>
>当時、諸外国との交易が始まっていたが、日本では金の銀に対する交換比
>率が欧米諸国よりも安く、諸外国は銀を持ち込んで、日本の金貨を買い
>漁った。
>
>欧米商人達は笑いが止まらないが、日本国としては大きな損失である。百
>万両ほども流出して、商取引に疎い幕府の役人もようやく腰を上げた。
>
>幕府は古い金貨を回収して、金の含有量を落とした新しい小判を流通させ
>る事とした。しかし、その引き換え業務をしてくれる両替商がなかなか見
>つからない。幕末の混乱の中で、諸国の浪人が軍資金の借用などといって
>強盗に入っていたので、多額の現金を扱う引き換え業を敬遠したのである。
>
>唯一、この幕府の依頼を受け入れたのが善次郎だった。資金のない善次郎
>に幕府は即座に3千両も貸してくれた。毎日、大量の古い小判が店頭に持
>ち込まれ、新しい金貨に両替するのだが、善次郎のところではその鑑定や
>枚数において、まったく間違えがない、と評判を呼んだ。
>
>この両替業務で、善次郎は「身代をこしらえた」と語っているが、同時に
>幕府は金の国外流出という国家的損失を防げたのである。
>
>
>■4.新政府の最も苦しい時期を支える
>
>幕府が倒れ、明治新政府が発足しても、商人たちは財政基盤の脆弱な新政
>府に近づかない。太政官札という不換紙幣(金貨との交換を保証しない紙
>幣)を大量に発行して財政危機を乗り切ろうとしたが、信用のない新政府
>の紙幣では紙切れ同然と、引き受け手が現れなかった。
>
>政府の窮状を見かねて、太政官札を引き受けましょうと、手を上げたの
>が、またしても善次郎だった。一時は太政官札が額面の半分以下に落ち込
>んだが、「必ず新政府の権威が確立する」と信じて善次郎は引き受けを続
>け、数年後には額面通りに通用するようになった。この事業で善次郎の事
>業もさらに大きく伸びたが、同時に新政府の最も苦しい時期を支えたでの
>ある。
>
>しかし、善次郎は両替商が政府に取り入って政商になることは社会のため
>にならない、と政府要人とは距離を置いていた。あくまで両替商という裏
>方として、陰徳を積んでいったのである。
>
>
>■5.金融界の発展のために
>
>明治政府は近代的な金融制度の確立のために、国立銀行の設立を各地の豪
>商・財界に勧めた。たとえば、渋沢栄一[a]を中心とした国立第一銀行、
>横浜の第二国立銀行といった具合である。
>
>大阪の豪商たちが設立を進めていた第三国立銀行は、発起人の間で対立が
>生じ、設立が遅れていた。ここで「あとは引き受けましょう」と手を上げ
>たのが善次郎だった。
>
>明治9(1876)年に開業免許を受けると、善次郎は店員たちとともに、大蔵
>紙幣寮付属の簿記学校に通って、近代的な簿記の勉強を始めた。事業を始
>めると、事務、帳簿、伝票書式まで営業ぶりは実に整然としていた。
>
>その後も各地に国立銀行が続々と作られたが、銀行設立に関する具体的な
>事務手続きを聞きたいと大蔵省に行くと、「安田さんのところへ行って聞
>いてください」という返事が決まって返ってきたという。
>
>善次郎自身も、いくつもの銀行の設立指導をし、また行員の研修を受け入
>れたりして、銀行業界の発展を陰ながら支えた。
>
>やがて各地の国立銀行の元締めとなる中央銀行の設立が求められ、善次郎
>も創立事務御用掛として任命された。欧州各国の制度の良いところを集め
>たというベルギーの中央銀行をモデルとしながらも、善次郎の主張した日
>本の風土に合った両替商の伝統の良い部分を引き継ぐ折衷方式が採用された。
>
>明治15(1882)年に中央銀行として日本銀行が創設されると、それまで各国
>立銀行がばらばらに発行していた独自の紙幣を止めさせ、紙幣発行を日本
>銀行の手に集約することが決まった。
>
>「安田善次郎」の名前の入った国立第三銀行の紙幣は特に信用があり、そ
>の発行権限を失うと善次郎が最も損をする。そもそも国立銀行設立は、大
>蔵省が20年間の紙幣発行の権限を与えて、奨励していたのだ。
>
>松方大蔵卿に頼まれて、渋沢栄一が善次郎のところに説明にでかけた。
>「間違いなくへそを曲げるだろう」と渋沢は覚悟していたが、善次郎は
>黙って渋沢の説明を聞いたあと、こう言った。
>
>
>「よく解りました。それが金融界の健全な発展のために必要だというので
>あれば、よろこんで賛成いたしましょう」。
>
>渋沢は、改めて善次郎が国家の利益を優先する高い志操の持ち主だと再認
>識した。
>
>
>■6.「心配なさらずとも、私が何とかいたしましょう」
>
>数多く設立された国立銀行の中には放漫経営や松方デフレで立ちゆかなく
>なった銀行が次々に現れた。善次郎のもとには、銀行救済、再建の依頼が
>引きもきらず寄せられるようになった。
>
>明治24(1891)年、武井守正・鳥取県知事から同県の第八十二国立銀行の救
>済依頼が持ち込まれた。資本金20万円の4倍もの累積赤字があることか
>ら「これはとても私の手に負えません」と善次郎は断ったが、武井の粘り
>強い依頼に、鳥取にでかけて実地調査だけはしてみることとした。
>
>鳥取についた最初の晩、幼い女の子を連れた老婆が宿を訪ねてきた。聞く
>と、孫娘の両親は数年前に亡くなって、今は元士族として維新当時に政府
>から貰った秩禄公債を八十二銀行に預け、その利子だけで細々と暮らして
>いる。銀行が潰れたら、娘の行く末が案じられて、夜も寝られない。どう
>か助けていただきたい、と老婆は涙ぐんで、頭を下げる。
>
>善次郎は深く心を動かされて、「心配なさらずとも、私が何とかいたしま
>よう」という言葉が思わず、口を衝いて出た。言った後で、しまった、と
>思ったが、「ありがとうございます!」と手を合わせて繰り返し頭を下げ
>る老婆に、訂正もできない。
>
>翌日から調査をすると、銀行の内情は思った以上にひどい。断るのが筋だ
>が、それでは老婆への約束が嘘になる。善次郎は意を決した。着々と整理
>を進め、第三国立銀行と併合させて、その後、安田銀行の一支店とした。
>現在のみずほ銀行鳥取支店である。
>
>善次郎は、常々側近に次のように言っていたという。
>
>「銀行を救済するのは関係重役や株主を救うためではない。その裏に何千
>何万の預金者があり、且(か)つまたそれには多人数の家族があるので、
>それを救うのである。
>
>銀行が破綻したため預金者が気が違ったとか、あるいは悲観の極(きわ
>み)自殺したり、またそれがために可愛い子女の縁談が破約になった、と
>かいう悲惨事をよく耳にしておる。それであるから、自分の利害という事
>は第二にして救わざるを得ない。これが銀行を救う真の目的である」。
>[1,p1128]
>
>■7.日本経済近代化を支えて
>
>銀行の本来の使命の一つは、一般大衆から預金を集め、それで国家公共に
>貢献する事業を支えるということだが、善次郎はこの面でも多くの分野で
>縁の下の力持ちとなった。
>
>その一つに鉄道網の整備がある。日本鉄道会社(現在のJR東北線、常磐
>線)、両毛鉄道(JR両毛線)、水戸鉄道(JR水戸線)、甲武鉄道(JR中央
>線)、青梅鉄道(JR青梅線)などは善次郎が出資したり、設立発起人に
>なった鉄道会社である。
>
>善次郎が大阪に行った際に、阪神電鉄の重役数人が、宿を訪ねてきた。大
>変、厳しい経営状態にあるので、何とか救済してほしい、という嘆願だっ
>た。善次郎は厳しい言葉を口にした。
>
>「大阪と神戸とは日本の中心にある主要な都市ですよ。この二大都市をつ
>なぐ唯一の電気鉄道である以上、儲かって当たり前でしょう。それが逆に
>年々赤字がたまっていくというのは理解しかねます。経営がよくないとい
>うのは自明ですな」。[1,p153]
>
>重役たちには返す言葉もない。ただ、国家経済を支える大事な鉄道である
>ので、善次郎はむげにはしなかった。「私の出す条件を全部受け入れると
>いうのでしたら、お力添えしますが」と助け船を出すと、うつむき加減
>だった重役たちの顔がぱっと明るくなった。
>
>「安田が支援するらしい」という噂が大阪の市場に伝わると、低迷してい
>た阪神株は急騰し、実際に善次郎がてこ入れを始めると、見る間に業績は
>回復していった。
>
>
>■8.浅野総一郎との協力
>
>自らは裏方として、日本経済の近代化を推し進める事業家を後押しするこ
>とを任務と考えていた善次郎にとって、「この人物なら」と見込んだの
>が、同じく富山出身の浅野総一郎[b]だった。
>
>善次郎が後押しした浅野の事業としては、明治 29(1896)年、外国航路へ
>の進出を目指した東洋汽船株式会社、明治31(1898)年の浅野セメントなど
>があるが、さらに大規模な事業が、京浜地区埋め立てによる港湾整備と臨
>海工業地帯の開発であった。
>
>事業の申請を受けた神奈川県知事は「かかる大計画の事業には、金融機関
>の確かなる人が連署しなければ許可しがたい」と難色を示したが、善次郎
>は「事業の方をあなたが引き受けて下さるなら、費用の方は私が引き受け
>ましょう」と請け合った。二人の協力により、日本を代表する臨海工業地
>帯として発展していった。
>
>善次郎は大正10(1921)年9月28日、83歳にして兇漢に襲われて、惜しくも
>その生涯を終えた。社会主義的思潮が広まる中で、資本家憎悪の感情にか
>られ、特に「陰徳を積む」精神から慈善活動のポースを嫌って「ケチ」で
>通っていた善次郎を標的にしたようだ。
>
>死後、善次郎が東京帝国大学に講堂寄付を申し出て、計画が進んでいたこ
>とが明らかになった。遺族は迷わず、善次郎の遺志を実行した。現在の安
>田講堂である。
>
>■リンク■
>
>a. JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一
> 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢によって、明
>治日本の産業近代化が進められた。
>http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h15/jog279.html
>
>b. JOG(719) 国土創生の志士 〜 浅野総一郎
>「おらは新しい世界を創る」という子供の時の志そのままに、浅野総一郎
>は国家的事業に邁進した。
>http://blog.jog-net.jp/201110/article_3.html
>
>■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
> →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
>
>1. 北康利『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』★★★、新潮社、H22
>http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4103260114/japanontheg01-22/
>
>
>
>━━━━━━━━━━━━━━━
>望郷の念を募らせていた与謝蕪村
>━━━━━━━━━━━━━━━
>
>
> 毛馬 一三
>
>江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716
>年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。とこ
>ろが、その生誕地が大阪毛馬村だと余り周知されていない。
>
>蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江
>戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、
>極度な望郷を募らせながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入
>れていない。なぜだろう。
>
>京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋と結ばれ
>て蕪村を産んだものの、若くして死去したため、蕪村は庄屋の跡継ぎにも
>成れず、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことから、意を
>決して毛馬村を飛び出したに違いない。
>
>蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴
>人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも
>師事して俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活
>費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。
>
>蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。
>
> <寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結
>城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧
>れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744
>年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号した
>のである。
>
>その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に
>結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以
>後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴
>されている。
>
>京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月
>17日)未明68歳の生涯を閉じた。> 出典: フリー百科事典『ウィキペ
>ディア(Wikipedia)』
>
>さて、蕪村は定住していた京都から船で淀川を下り、生誕地毛馬村をすり
>抜けて、頻繁に大阪にやって来ていた。
>
>京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離
>れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だっ
>た。ここから上がって大阪市内に居る数多くの門人弟子らを訪ねて回って
>いる。
>
>また蕪村は、俳人西山宗因の墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねた
>り、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山
>宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪市内いたる所
>を巡回している
>
>特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪
>「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪
>村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の
>蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都—大阪往復行脚は活発
>だったようだ。(大阪市立大学文学部)
>
>ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされ
>ている。だが実際は、大阪も上記の通り活躍の場だったのだ。これもあま
>り知られていない。
>
>船着き場の源八橋から生誕地の毛馬まで歩こうとすれば、30分ほどしかか
>からない。それなのに蕪村は、生涯毛馬には一歩も足を踏み入れなかった。
>
>やはり母の死後、家人から苛められ過ぎ、出家まで決意させられた辛い思
>いが、大坂に帰郷すれば脳裏を支配し、終生「怨念化」して立ち寄りを阻
>んだのだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎる
>ものだったと思える。
>
>とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いないよ
>うだ。
>
>自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬
>への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った
>時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持
>ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。
>
>蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」で
>あり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様
>と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。
>
>筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「蕪村顕彰俳句大学」で
>は、大阪市立大学と共同し3年後に迫った2016年に「蕪村生誕300年祭」
>開催の準備を進めている。
>
>地元淀川連合町会や地元NPO法人とも、共同事業にする方向で折衝をし
>ている。
>
>「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含め様々な記念事業を行ってい
>る。しかし大阪俳人蕪村生誕を顕彰する「お祭り」の実績は全くない。何
>としてでも「蕪村生誕300年祭」を成功させ、大阪俳人与謝蕪村の名を国
>内外に広めたいと考えている。
>
>大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村
>を、「蕪村生誕300年祭」開催の時には、「蕪村魂」だけでも来場して貰
>いたいと思っている。「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現さ
>せることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)
>
>
>
>━━━━━━━━━
>トイレットペーパー
>━━━━━━━━━
>
>
> 渡部 亮次郎
>
>紙は文化のバロメーターといわれるが、もう1つのバロメーターはトイ
>レット・ペーパーの質では無いか。旧ソビエトの迎賓館のトイレに坐りな
>がら、つくづく考えたことだった。
>
>1978年1月、外務大臣秘書官としての初外遊がモスクワでの「日ソ定期外
>相協議」への随行だった。1月のモスクワは零下20度まで下がるというの
>で、防寒具を整えたが、経験者たる報道課長古川清さんの入れ智恵で、ト
>イレット・ペーパーを多めに携帯した。
>
>なるほど、モスクワの「レーニンが丘」に建っている何棟かの迎賓館のう
>ち泊められた1号館は鉄筋2階建て、警備の警察官が寝ずの警備をしてくれ
>ている。
>
>迎賓館の周囲を歩く靴の雪をこする音が夜中中していた。時差ボケでよく
>眠れないうちに、朝がきて園田大臣が寝室で5時に起きだしたようだが、
>外はまだ真っ暗。結局、9時にならないと明るくならなかった。
>
>台所には、女性が1人いた。おっぱいがヘッドライトを括りつけたように
>大きいが、推理小説の読みすぎか、秘密警察の要員かと思って警戒。各部
>屋には冷蔵庫の備え付けが無かった。ビールも無かった。
>
>トイレに入って驚いた。古川さんの教えてくれた通り。トイレット・ペー
>パーは、ごわごわと音がする厚さ。多分、ボールペンで字が書けたろう。
>東京から持っていったものが役立った。
>
>トイレットペーパーは14世紀に中国で最初に生産されたとされている。そ
>の当時は皇帝用であった。
>
>便所用につくられた初めての工業製品は1857年にアメリカ合衆国のジョセ
>フ・カエティによって作られた。カエティの名前はすべての紙に印刷された。
>
>トイレットペーパーやちり紙が普及する前は、裕福な人は羊毛、レース、
>麻を用いていた。そうでない人は、直接手を用いるか、ぼろ布、かんなく
>ず、草、干し草、石、砂、苔、水、雪、トウモロコシの皮、貝殻などを用
>いて拭いていた。古代ローマでは海綿を用いていた。日本では、ちゅう木
>(糞べら)という細長い板を用いていた。
>
>帝政ロシアでは、部下が皇帝が用いるトイレットペーパーに皇帝の刻印を
>押した。ヘンリー8世の宮廷では、その手で王族の臀部を清潔にする便所
>担当の廷臣がいた。
>
>安全上の理由のため、特に信頼された廷臣のみが選ばれた。また、王と毎
>日二人っきりになる好機であるため、その影響力を得たいためにこの仕事
>を望む部下は多かったという。
>
>その名残か、ソビエトではトイレット・ペーパーには政府は全く関心が無
>いようだった。帰国する時に、日本製をすべて彼女にさしだしたら、初め
>て笑って謝意を示した。金の入れ歯が確認できたわけ。
>
>記者の大先輩、古澤襄(のぼる)さんによれば、最近のロシアはヨーロッ
>パなどから輸入するらしく、「字の書けるトイレットペーパー」は姿を消
>したらしい。
>
>しかし、私の訪問した13年後、ソビエトは社会主義体制に74年でピリオド
>を打った。目が爛れ、破れた靴を履いてクレムリンを訪れた市民を見る
>と、社会主義はとっくに破滅しているのが分かった。
>
>ところで、トイレットペーパーは、日本ではどれもほぼ一定の大きさで
>あって、便所の各個室備え付けのホルダーにとりつけてある。国によって
>はロールがかなり大きく、その場合はホルダーもそれに対応したものと
>なっている。
>
>各国の紙資源の状況、下水道の状況により、用いられている紙は違いがあ
>る。一般的には柔らかい紙が使われるが、硬い紙が一般的に用いられてい
>る場合には同時に処理せず、別に汚物入れに捨てるように指示されている。
>
>迎賓館にはそういう指示は無かった。
>
>日本では、従来はB5版サイズ程度の大きさの、通称ちり紙が利用されてい
>たが、水洗式便所の発達に伴って巻き取り式の物が普及した。その用途の
>ために次の条件を満たす必要がある。
>
>肌に触れて不快感がないこと。最近では2枚重ねのものが増えてきている。
>
>強度があること。使用中に崩れてしまうと不快であり、また衛生上望まし
>くない。 吸水性に優れていること。 水に濡れると繊維がほぐれること。
>下水処理が行いやすくする必要がある。
>
>また、下水処理を行うバクテリアなどにとって害のある物質が含まれない
>ようにしなければならない。 安価であること。消耗品であるので、低コ
>ストである必要がある。再生紙がよく使われる。
>
>この他にも使用者の利便性のためにミシン目などが入っていたり、香りが
>つけられていたり、文字が印刷されている物も作られている。
>
>ホテルやアミューズメント施設などで顧客サービスの一環としてトイレッ
>トペーパーを三角に折ってあることがあるが、元々は「ファイアーホール
>ド」といい、緊急呼集をかけられるケースの多い消防署で迅速に対応でき
>るように考案されたものである。
>
>一般にも広まったのは帝国ホテルの清掃員が清掃の完了の目印として行っ
>たものらしい。
>
>ペーパーホルダーの制約があるので、トイレットペーパーのサイズは標準
>化されている。
>
>日本、アメリカでは、114 m
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